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舞台保存会だより29 再興立川流・間瀬恒祥氏の来松

2010年6月 7日

再興立川流・間瀬恒祥氏の来松

(掲載の写真はクリックすると拡大します)

 

昨年の8月5日に全久院において「旧開智学校彫刻調査報告会」が開かれたことをご存知でしょうか。私も事後に知りましたが、主催は「立川流彫刻研究所」というところで、報告会に際して無線綴じながら16ページのきちんとした報告書も作成されていました。報告書の冒頭には2008.5.30の日付も入っていますので、すでに3年前にこの調査研究がなされていたことが知られます。報告者は「立川流彫刻研究所主宰 間瀬恒祥」とあります。

調べてみると半田市亀崎町に「立川美術館」なるものがあり、また「再興立川流後援会」なる組織も同所にあるようで、どうも立川流彫刻に深く嵌った人間が活動している組織らしい。私もその一類かも知れませんが、山車とか立川流彫刻とかの世界には所謂オタクがいるもので、インターネットを開くと全国各地の山車祭りや、山車の仕様まで克明に調べ上げている数寄者もいます。それにしても重要文化財とは云え、こんな遠くの昔の学校の彫刻を立川流だからといって調べたり、おそらくは私設の美術館まで造り、果ては自分自身でも鑿を振るって再興立川流を唱えるとは、相当イカレタおっさんらしいと想像していました。

その間瀬恒祥(ませ こうしょう)氏から3月の半ばに電話があり、4月の初めに来松の予定があるので深志舞台を見学したい旨要請がありました。やはり来たかと思いつつも、受話器の向こうの声は落ち着いた紳士らしい口調で、オタク風は毛筋ほども感じられず、私は直ちに来訪を期待する心持になりました。

そして4月の11日、間瀬恒祥氏以下7名の立川流彫刻研究所関係者ご一行が深志神社に来訪されました。

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(小池町舞台庫前で 立川流彫刻研究所一行) (舞台彫刻を見る間瀬恒祥氏)

間瀬氏からの希望で、今回は立川流の彫刻を施されている4台の舞台を見学してもらうこととしました。その舞台とは「小池町」「飯田町1丁目」「伊勢町2丁目」そして「博労町」の4台です。間瀬氏は旧開智学校の立川流彫刻を調査するなかで、所謂本筋の直系立川家から派生した彫刻家達、原田蒼渓や清水虎吉の存在に関心を抱き、その舞台彫刻を見てみたいというのです。

まず小池町と飯田町1丁目舞台から案内をしました。この2台の舞台は彫刻作者が清水虎吉と伝えられています。小池町舞台は高欄下に日本歴史説話彫刻と1階手摺に桃太郎一代記があります。また飯田町の舞台は手摺り部分に二十四孝図が5面ほどあり、両舞台とも持送りには龍・麒麟など霊獣彫刻が施され、立川流らしい彫刻の舞台と言えます。

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(小池町舞台彫刻 持送りの「雲龍」と「飛龍」)

ところが間瀬氏の着眼はもう少し専門的で、それは彫刻の随所に現れる「波」や「雲」の形・彫り様から、この彫刻者の正統立川流との距離を測るといったものでした。すなわち、間瀬氏の眼の中には立川和四郎富棟や富昌の正しい波頭の形がはっきりとあり、それに対して清水虎吉の彫刻を見ます。するとその波の形には「創作」がある、また余分な線がある。良く言えばそれは虎吉の創造であり意欲の顕われと言えますが、立川の弟子としてみると自己流に流れている、師匠の膝元に居れば決して許されない彫り様であるというのです。

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(小池町舞台持ち送りの雲の表情)

私は驚きました。個人的に私は清水虎吉の作品が大好きで、人物彫刻もさることながら龍や霊獣の表現には独特の力があり、また小動物の描き方にもえも言われぬ魅力があって、そこに虎吉の個性を感じています。しかし間瀬氏はそうした表現の巧みさには触れず、雲の渦に余計な線を入れているとか、波の形が崩れているなどと言われる。ピンときません。いったいそれがそんなに大事のことなのだろうか、波なんぞ勢いよく彫れていればそれで十分ではないか、と思う一方で、間瀬氏の指摘には永年立川彫刻の研究を続け、徹底的に見詰めてきた眼力による説得力があり、あらためてこの立川流彫刻という世界の広さ深さを垣間見るように思われました。

考えてみれば私は立川流について、その特徴を素木彫りで木目を重視するとか、得意な題材は二十四孝などの人物彫刻や、粟穂にウズラであるとか、外周的な知識は得ていましたが、それ以前の基本的な刻法や流派としての理念といったものには全く無知でした。そう、優れた技能というものには言葉にはできなくとも必ず強い理念があります。立川流というのはただ単なる彫刻名人集団ではない、例えば西洋の近世画家たちのように独特のメチエを確立したプロの技能集団なのだと理解しました。

原田蒼渓についても同様。彼は旧全久院の建築材を再利用して開智学校の彫刻を仕上げた当事者と目されていますが、伊勢町2丁目舞台の彫刻を見るなかでは、しばしば正統立川流のオーソドッククスから外れる傾向にあるとのことでした。

なんだか地元の大好きな作家たちがいま一つの評価といった感じで、残念な気分にもなりました。

その間瀬氏が舞台庫間を移動の途中「おっ、これは」と脚を止めて見上げた建物がありました。それは深志神社の手水舎です。間瀬氏は手水舎の虹梁や欄間部分を指差して「これこそまさに立川流だ」と指摘しました。この建物、深志神社の社殿の例に漏れず極彩色に塗り上げられていますが、彫られた波の形やその様式化がまさに正統本流立川流の形・様式であるというのです。

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(深志神社手水舎とその正面虹梁と欄間)

ところが、氏が感心してもっとよく見ようと手水舎の側面に回り込むと「やっ、これはまた(絶句)どうしたことか…」手水舎の東側面と北の背面彫刻は全く似て非なるもの、まったく立川流とは別の代物であるとのことでした。たしかによく見ると東側面と背面の虹梁彫刻は波でなくて唐草のような文様になっています。欄間の波も少し変。しかし、無知とは恐ろしいもので、間瀬氏に指摘されるまでそんな違いは気にしたこともありません。

「それにしてもどうして同じ建物でこんなことが起こりうるのか…」間瀬氏は溜息をついて首を捻りました。

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(手水舎側面の文様 これはダメな例)

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(立川流彫刻研究所にある立川流の虹梁)

そのあと一行は長沢川沿いを下って博労町へ。氏子町内に現存する最古・最大の深志舞台「博労町舞台」を見学しました。博労町舞台は江戸後期の製作とされますが正確な年代、作者は分かっていません。この機会におおよその製作年と彫刻の作者について具体的な名前が聞けたら、と期待してみました。

間瀬氏は、年代について少なくとも二代目(立川和四郎富昌)の時代ではない、もっと下るであろうとのこと。おそらく幕末。作者については立川と言っても実際に鑿を振るっていた人間は多いので特定まではできないとのことでした。

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(博労町舞台の持送り「亀」と「麒麟」)

更に立ち会ってくれた博労町の古老から意外なことを聞きました。舞台の正面と側面に取り付けられている5面の高欄下彫刻、神仙図彫刻と呼んでいたものですが、これは元来この舞台に在ったものではないというのです。もともと博労町舞台には高欄下彫刻はなかったのですが、よその建物から外されて行き場のなかった彫刻があり、丁度この舞台の高欄下に合いそうだからと取り付けられたのだとか。初耳ですが、そういえばこの彫刻は高欄下部分に不自然な仕方で取り付けられており、事実のようです。

また、その建物とはどうやらお寺らしく、すると全久院=開智学校と同様、廃仏毀釈によりあぶれ出た彫刻が別の建築材となったとも考えられ、まさに今回の間瀬氏のフィールドということにもなりますが、伝承だけですので何とも言えません。

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(博労町舞台の高欄下彫刻)

立川流の彫刻であるか、の問いに対しても氏は「たしかにその(立川の)臭いはあるが、確言はできない。」荒削りで未完成にも見える彫法も珍しく、研究を要するとのことでした。

この後立川研究所ご一行は5月の再訪を告げて帰りました。

この一件で間瀬氏と半田の山車に強く惹かれた私が、春祭りの合間を縫って半田まで出掛け、間瀬氏の地元亀崎町の潮干祭りを見てきた件は、またいずれ報告したいと思います。

折り返すように間瀬氏と立川研究所はこの5月16日17日、あがたの森文化会館で「立川流彫刻展 in 松本2010」と題して新しい彫刻の展示と研究発表会を行いました。彫刻は立川流建造物を有する佐久の古刹「津金寺」の鐘楼に取り付けるもので、大きな4面が展示されていました。またパネルには半田の大彫刻の修復模様が紹介されており、これは舞台修復方法として大変参考になるものでした。

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(立川流彫刻展 あがたの森文化会館にて) (津金寺鐘楼に飾られる彫刻)

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(会場での間瀬先生) (彫刻の修復過程を示したパネル展示)

館内は大賑わい。応対に忙しく間瀬先生とはゆっくり話すこともできません。研究所の関係者は来展者の多さと立川流に対する松本の人々の関心の高さに一様に驚いていました。間瀬先生にはいずれ近い機会に松本で講演会などお願いしたい旨を伝えお別れしました。

その後無事「津金寺鐘楼」に再興立川流の彫刻が取り付けられたこと、新聞でご覧になった方も多いでしょう。時間ができたら見に行ってみたいと思います。

立川流彫刻研究所HP

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