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舞台保存会だより42 鐘馗の棲む舞台

2011年8月11日

鐘馗の棲む舞台

(写真はクリックで拡大します)

旧四賀村、松本市四賀の会田地区に、奇矯な山車行事と興味深い舞台があります。

舞台は四賀村の総社・会田神明宮の秋の祭礼に曳かれる会田・本町、新町、宮本と、五常・西宮の4台です。舞台とは言いながら、本町以外は布の舳と艫を張り、船の姿で出場してきます。お船と呼ぶ人もいるようです。

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(会田神明宮の参道) (神明宮の正面 この石段を舞台が登る)

会田神明宮は会田宿郊の山の中腹に鎮座しています。当然参道は山坂道なのですが、宵祭りの夜には4台の山車が雪洞・提灯に明かりを灯し、この坂道を登ってきます。

登りつめるとそこは神楽殿と草地の祭り広場で、神明宮の社は更にその上、二段に築かれた石垣の上に建ち、正面には20段ほどの急な石段もあります。しかし舞台たちはこの石段をも攀じ登ってきます。

拝殿では祭儀の真っ最中、総代さんが神妙な顔で玉串奉奠などを行っている時に、表では笛太鼓や若者たちの喚き声と共に、山車が石段上部まで曳き揚げられ、舳を擡げて競り上がり社殿に触れんばかり。殿内も外の喊声に圧倒され、お祭りだか何だか分からなくなります。

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(宵祭り9時頃 神明宮神楽殿前に集結した舞台たち 拝殿より見下ろす)

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(会田本町舞台) (会田新町舞台)

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(会田宮本舞台) (五常西宮の舞台)

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(神楽殿で浦安の舞奉納 これが終わると舞台のアタックが始まる)

そもそも石段というものは人が歩いて登るために築かれているもので、曲垣平九郎ではありませんが馬ですらまともには上りません。まして舞台やお船が登るとは…。

地元の青年も異常な祭りと言いますが、たしかに少し異常です。しかし、そのような異常をお祭り騒ぎの情熱パワーで敢えてすることこそ祭りであり、殿内で行われている厳かな神事などよりはるかに祭の本義に庶いように思います。

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(会田本町の舞台 昼の本祭りにて)

さて、この祭に曳かれる舞台ですが、上記のような祭りの事情もあってか、やや小振りで簡素です。但し、会田本町の舞台はサイズこそ変わらぬものの、なかなか見事な彫刻が施され、錺金具もきちんとした注目に値する舞台です。群鶏の中の金鶏と言ったら他の舞台に失礼ですが、眼はついついこの本町舞台に惹きつけられてしまいます。

ところでこの本町舞台の彫刻は、持送りや高欄下・二階欄間部など要所にセオリーどおり施されているのですが、どこか少し調子が変わっています。中でも高欄下四隅で舞台を支えている力神。その顔と言ったらありません。まるで風船玉に顔を描いたようで、初めて見たときはこれが力神とは思いませんでした。

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(会田本町舞台の力神たち)

力神は立川流の作者が好んで用いる題材です。以前、潮干祭りの回(舞台保存会だより32)でも紹介した亀崎・中切組力神車の力神を筆頭に、知多地方の山車にはかなりの率で力神が載っています。松本では山辺・荒町のお船に力強い力神がおり、これは清水虎吉の作で、さすが虎吉・立川東渓といった迫力があります。

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(里山辺・荒町お船の力神)

それに較べると、この会田本町の力神は、ひょっとこ?と見紛うほど。どうやら力士のようですが、愛嬌があって剽軽。こんな力神を彫った作者の人柄が偲ばれます。

また、この舞台の二階屋根後部の鬼部に奇妙な人物像が彫られています。ぐりぐり目玉をした鬼か天狗のような化け物が、編み笠のようなものを上から押し広げ、腕を突っ張った格好で睨んでいます。

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(会田本町舞台の大屋根・鬼の彫刻 舞台屋上の怪人!)

この化け物はいったい何者なのか、また何をしているのか…。他所でも見たことがなく、下から見上げながらただ首を捻るばかり。

さらにこの舞台、よく見ると二階正面の笈型彫刻に「粟穂に鶉」図が彫られており、あらためて他の彫刻も見直しました。

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(会田本町舞台の正面笈型「粟穂に鶉」図、粟穂にカモ?にも見える下の唐獅子と思われる動物も少し変っている)

多少とも立川流に知識のある方ならよく御存じですが、「粟穂にウズラ」は立川流彫刻の殊芸であり、象徴と言えます。多くの立川作者が、これぞ立川の建築彫刻と認める造作物に粟穂に鶉図を刻んできました。例えば先だって修復を終えた山辺湯の原町のお船も、二階正面笈型には粟穂に鶉を掲げています。しかし、他の流派がこの題材を彫ったという例を私は知りません。するとこの会田本町舞台は立川流作者の建造した舞台ということになるはずですが、いったいその作者は誰なのでしょう?

宮司さんを始め町会関係者は制作年も含めて知る者なし。江戸か明治の頃か、飛騨の匠が来て造ったのではないか、といった殆んど想像任せの話ばかりで全く当てになりません。

確かな情報を聞くこともなく、舞台の謎は深まるばかりでした。

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(湯の原町お船の「粟穂に鶉」立川専四郎富種作)

所と話がコロリと変わりますが、松本から南へおよそ300㎞の愛知県知多半島、その伊勢湾に突き出した蛸の脚のような半島の先端に美浜町という町があり、その一隅に布土(フット)という小さな集落があります。この布土の祭礼には3台の山車が曳かれますが、中で上組・護王車と呼ばれる山車は注目すべきものです。

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(布土の上組・護王車)

この山車はもともと下半田の南組が所有していたもので、明治14年に布土に売却されました。山車自体は標準的な知多型の山車で江戸時代後期の制作と思われますが、彫刻を立川和四郎富重が入れています。富重ですからおそらく幕末の頃でしょう。その彫刻、脇障子の『柘榴に猿』は前々回のたよりでも紹介しましたが、なんといってもすごいのは車名の由来ともなった壇箱の彫刻『護王の夢物語』です。この作品は数ある知多の山車彫刻の中でも屈指のものではないかと思います。

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(護王車の壇箱彫刻『護王の夢物語』)

彫刻の図は横に細長い壇箱をあたかも絵巻物のように使い、夢物語を一連の彫刻でまったく対照的な3つの場面に描き出しています。場面ごとにその物語を解説しますと、

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(熱病に侵され、幻想に悩まされる玄宗皇帝)

大唐開元年間、ある時、時の皇帝・玄宗帝は熱病に罹り床に伏しました。夢にも小鬼が現れ、周りを跳梁して皇帝を悩ませます。

するとどこからともなく大鬼のような髭面の大男が現れ、つぎつぎと小鬼を捕え退治してゆきます。鬼たちは駆除され、玄宗は平静をとり戻しました。

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(小鬼を捕え退治する髭面の男・護王=鐘馗)

帝が男に名を問うと「自分は終南山の出身、鐘馗と申す者。武徳年間(618~626)、武挙(科挙の武人版)に臨んだが、この容姿のため最終の殿試で退けられ落選しました。身を儚んで自ら命を絶ちましたが、時の高宗皇帝は憐れんで自分を手厚く葬ってくれました。私はその恩に報いるため、高宗の子孫であるあなたの病床に参ったのです。」と。

目が覚めると、帝の病は癒えていました。

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(慌てふためいて逃げてゆく小鬼たち)

玄宗皇帝は画家・呉道玄を召し、夢中の肖像を描かせました。絵姿は皇帝が夢に見たままで、その像には邪気を祓う力があるとされ、世に広まりました。

ざっとこんな話。『護王の夢物語』の護王とは鐘馗のこと。五月人形などでも馴染み深い厄除けの守護神です。

それにしてもこの壇箱彫刻は見事です。向かって右面のメランコリックで悩ましげな玄宗皇帝。静かで重い空気が漂います。側面の静物が場面の静謐さを引立てています。

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(玄宗皇帝と隣りの壇箱側面の静物 まるで西洋絵画のようです)

そして中央の小鬼を捕える鐘馗。その顔力と小鬼を抑え獲る全身の筋肉の力強さ。迫力と瞬発力の表現には比類がありません。

さらに左面、壊乱して無秩序に逃げる小鬼たち。その諧謔的な表現もまた類稀です。

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(逃げる小鬼たち 混乱した姿と表情が楽しい)

見事な構成力と表現力。木彫にしてこれほどの表現ができるのか、と驚かされます。

この作品も立川富重作ということになっていますが、間瀬先生によると手掛けたのはやはり富種だろうと。構成も富種自身でしょうか。まったく天才というほかありません。

因みに「編み笠で鬼を捕える鐘馗」という図は、鍬形蕙斎の「諸職画鏡」の中にあります。鐘馗と言えば、触角のような頭飾りをつけた中国の進士姿が普通ですが、編み笠を被り、歩く絵姿も江戸時代には一般だったようです。

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(「諸職画鏡」に描かれた鐘馗の図)

鐘馗と言えば、深志舞台には博労町舞台に乗る舞台人形「鐘馗」像があります。重厚な舞台とよく似合って、髭面で剣を持った姿はいかにも強そう。しかし、鐘馗は閻魔大王などと違い、そのエピソードからしても、どこかセンチメンタルな雰囲気が漂います。試験に落ちて自殺してしまうのですから、顔に似合わず心に弱いところがあったのでしょう。博労町の鍾軌像は、そのへんのデリケートな心の部分を、表情の中に宿しているように見えます。

鐘馗様は昔から子供たちの厄除け、また学業の守護神としても崇敬されてきました。心の弱さを知る神であればこそ、人の救いも果たせると信じられたのかも知れません。

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(博労町舞台の人形 鐘馗像)

さて、もとに戻って会田本町舞台の屋根鬼の怪人。これは鐘馗ということで間違いなさそうです。関西では屋根の鬼瓦に鐘馗の像を飾り、家の厄除けとするところもあるとか。

舞台の作者はそんなことも知り、また下半田の立川富重(富種)の護王図にも憧れて、この鐘馗の鬼を作ったのではないでしょうか。会田本町舞台の作者が、どのようにして知多の山車彫刻について知っていたか、或いは下絵を見ていたのか分かりませんが、彼が立川流作者であれば、あの鐘馗図はぜひ模倣してみたい図だったのでしょう。

会田と布土の護王との比較は愚かなことですが、同じポーズを屋根の鬼として使う発想は卓抜ですし、何処となくユ-モラスな鐘馗の姿には親しみを感じます。

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(布土・護王車の鍾軌と、会田・本町舞台の屋根鬼の鍾軌)

この稿をまとめる中、確認のため四賀中川の市川恵一さんに会田本町舞台のことを伺うと、意外なことを教えてくれました。(市川さんは以前、市の文化財課におられました。立川流に詳しい。)会田本町舞台の制作は明治29年頃で、棟梁は堀内益太郎という大工と、彫刻は清水虎吉だというのです。

堀内益太郎は会田の大工で、明治29年にやはり虎吉と組んで四賀・保福寺の舞台を完成させています。市川さんによれば、ほぼ同じ時期に二人はこの会田本町の舞台を造ったのであろうと。

会田の舞台建造に関わったとされる家には、この時虎吉が酒手代わりに彫ったとされる恵比寿・大黒の像が伝わっており、裏には明治29年の年号と「立川古ト」という刻銘もあるそうです。

確かにこの明治の中頃、松本近辺で立川流を自認し、粟穂に鶉を掲げる彫刻師は清水虎吉だけかも知れません。虎吉は立川専四郎富種の弟子ですから、護王の夢物語も実物か下絵かを見ていた可能性は高いとは思います。

ただ、恵比寿像が虎吉のものに間違いないとしても、それは保福寺舞台の建造に際したエピソードであったかもしれず、会田舞台の建造の証左とするのは如何か…。また、果して全く同じ年に2台の舞台を手掛けることができたのか疑問があります。さらに彫刻にも作者の銘はなく(清水虎吉は必ずと言ってよいほど銘を残します)、作風も私には虎吉からは遠い印象を抱かせます。

いずれ修復等により調査の入る日もあるでしょうが、鐘馗様の棲む謎の多い舞台は、謎を載せたまま曳かれるのもよいかと思います。

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