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舞台保存会だより48 舞台の竜(続き)

2012年2月13日

舞台の竜(続き)

(~舞台の竜前編はこちらをクリック~)

東洋史家・宮崎市定氏(1901~95)に『龍の爪は何本か』という面白いエッセイがあります。題名そのままに、竜の爪(手足の指爪)というものは、本来何本であるか、ということを論考した文章です。

中国をはじめとして、朝鮮、日本には膨大な数の竜が画かれたり刻まれたりしていますが、その竜たちは5本爪あり、4本爪あり、3本爪が多く、2本爪もあるようです。どれが本当なのか?

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(上田市東昌寺鐘楼の竜 立川(宮坂)昌敬作)

絵画や社寺彫刻得を見ると、日本に生息する竜は圧倒的の3本爪が多いようです。しかし、中国には5本爪の竜がおり、これは皇帝専用で一般庶民は用いてはならない特別な竜だ、という話はご存知の方も多いでしょう。宮崎氏によると5本爪竜が皇帝専用と定められたのは宋(北宋・960~1127)の時代で、以後世間の竜の爪は皆4本以下になった。一方で歴世に亘り中国を宗主国と仰ぐ朝鮮王朝は、三舎を避けて王室の竜を4本爪と定め、一般の竜には4本以上を禁じたため、朝鮮の庶民竜は3本爪以下となりました。

中国・朝鮮から絵画という芸術を習得し、その中で竜と云う動物を学んだ日本人は、竜とは3本爪の生物と学習し、3本爪の竜が殖えることになったと言います。

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(駒ヶ根市 大御食神社本殿の竜 立木音四郎作)

日本は朝鮮と違い、古代に中国との政治的柵封関係は解消していますから、竜の爪を5本に描こうが4本に描こうが遠慮ないはずですが、この辺が文明を生んだ国と享けた国との違いで、哀しい哉できなかったのでしょう。日本人の律義さでもあります。

竜の爪という小さなパーツひとつを採っても、文明の伝播に微妙なニュアンスが見え、興味深い話です。

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(桑名市西舩馬町祭車 階段脇の竜 立川富重作 材は梅の木)

蛇足ながら、この話にはもう一つ奥行きがあります。

もともと宋代に皇帝専用と定められたのは、竜の紋様自体であったといいます。

哲宗皇帝の時代(1085~1100)、許された者以外が竜の紋様を用いることを禁じる法令が出されました。竜は皇帝専用と定められたのです。

たしかに竜は中国皇帝の象徴ですが、同時に中華文明の象徴でもあり、士庶遍く人気の霊獣です。それが皇帝独占ということになれば、黎民には実害はなくとも蟠りが生じ、不満が内訌して、延ては水滸伝のような輩を生む起因にもなりかねない。(水滸伝の時代はこの直後ですが)そこで政権は法令の施行に手心を加え、厳格な実施を保留すると共に、あらためて竜の定義を行い「竜とは二角・五爪の竜である」と定めました。つまり3爪や4爪の竜は、竜に肖て竜に非ず、したがってそのような竜の偽物はいくら描いても差し支えないという理屈です。政治が言語を支配しています。

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(里山辺湯の原町お船 2階欄間の飛龍 立川富種作)

これは現代中国にも通ずる面白い話です。共産主義であれ帝政であれ、体制の如何に係わらず元来が中国という国は専制国家です。専制国家経営の要諦は人民に対する手綱の執り方にあり、緩くても強つ過ぎてもいけない。「竜を皇帝専用とする」という行き過ぎた法令を出してしまった時、反省して取り消すのではなく、運用と解釈で切り抜けてしまうというのが中国のやり方のようです。

これは外交関係にも援用されます。中国が果して日本を対等な国家と見做しているかどうかは疑問ですが、何かあれば交渉を行います。アメリカのように、言うこと聞かなきゃ鉄砲を打つまで、というような出鱈目は決してしません。必ず政治的に解決します。但し、自らの原則は決して曲げずに。

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(湯の原町お船 勾欄下八双金具の竜 京都の錺師・躰阿弥作左衛門作)

近年日本と中国は、尖閣諸島問題などで何かとぎくしゃくしていますが、大国振りに恐れをなして物も言えない、などは論外としても、やたらと中国非道論を鳴らして、無闇と世情を煽る自称愛国者にも困ったものです。有史以来、日本は外交関係で中国との摩擦が絶えたことはありません。根本的に国柄が違うのだからそれが当然です。卑屈にも尊大にもならず自立した思考と、広い同情心(洞察力)を持つことが大切だと思います。

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(里山辺藤井のお船 2階欄間の竜 立川富保作 松本近郊ではこの竜の右に出る竜はないでしょう 写真がショボくて残念)

竜は中国の象徴、その理想でもあります。何かあったら竜の3本爪を見て、中国と渉り合う大人の思考を取り戻したいものです。

閑話休題、深志舞台の竜の紹介を続けたいと思います。

【中町2丁目舞台】

この舞台の竜は2階の欄間部分の四神獣彫刻と、1階手摺部分に竜の彫刻が彫られています。

作者は大工棟梁でもある山口権之正です。

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(中町2丁目舞台)

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(2階欄間彫刻 舞台解体の際に撮影しました)

四神獣は青竜・朱雀・白虎・玄武を謂い、それぞれ東・南・西・北の象徴的守護霊獣とされます。四神相応と謂うように、古代都の造営などには、四神に相当する地勢を配した土地を選びました。この舞台は正面に朱雀を、左側の欄間に青竜を配しています。

1階手摺の竜は三面にゆったりと描かれています。

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(1階手摺り彫刻 前面と側面)

もう一つ。この舞台の2階勾欄下の八双金具には見事な竜が打出されています。作者は田口宇一郎。現在も中町で宝飾店を営む「かざりや田口」さんのお爺さんだそうです。田口さんのお宅には、和紙に画かれた竜の下絵が大切に保存されていました。

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(勾欄下八双金具)

中町2丁目舞台は棟梁以外、地元町内の職人たちが腕に撚りを掛けて拵え上げた舞台です。

【飯田町1丁目舞台】

飯田町1丁目の舞台は明治18年(1885)の制作。彫刻は清水虎吉と伝えられます。

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(飯田町1丁目舞台懸魚彫刻 舞台解体に際して)

2階唐破風屋根の懸魚彫刻に、正面が玉巵と竜、背面には飛竜が彫られています。それと正面小屋根を支える左の持送りに竜がいます。右側は鳳凰、後方は霊亀と麒麟です。

位置関係は違いますが、ここも博労町舞台と同じ四霊獣です。

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天神まつりH.23 107天神まつりH.23 110

(前後持送り彫刻 四霊獣)

もうひとつ、飯田町1丁目舞台の後ろの暖簾幕には竜が画かれています。「昭和三十一丙申年十月 源右衛門」と読めますが、どういう由緒なのでしょうか。

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(飯田町1丁目舞台と その後部暖簾幕)

【小池町舞台】

小池町舞台は明治27年(1894)の制作。この舞台も彫刻は清水虎吉です。

前後の持送りに見事な竜と飛竜が彫られています。

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(小池町舞台)

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(前後持送り 竜と飛龍)

飯田町のもそうですが、流石に清水虎吉の霊獣彫刻、特に竜は見事です。

彼の彫る霊獣は眼に力があり、見ていると逆に見られているような感覚を覚え、彫刻の中から霊獣の意思のようなものを感じることさえあります。

虎吉という人は、只の巧みな彫刻家、というだけの人ではなかったのだと思います。

【大町市大黒町舞台】

現在は深志舞台ではありませんが、もと本町2丁目舞台ですので、番外編ということで紹介します。

この舞台は天保8年(1837)松本で建造され、翌年竣工しています。大工棟梁は伊勢町の原田幸三郎、彫刻は立川和四郎富昌が請け負っています。富昌としては半田亀崎・力神車の10年後の仕事ということになります。間違いなく県内の山車の中で、最も重要な一台といえるでしょう。

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(大町市大黒町舞台の前部と持送り)

前方の持送りが竜の彫刻です。写真では分かりづらいのですが、材に厚みがあって素晴らしい重量感があり、近寄るだけで圧倒されます。これこそ立川本流の竜なのでしょう。

また2階天井の支え板には、博労町舞台と同じように箔押しの雲竜紋様が施されています。舵棒の先端に施された竜頭彫刻も見事。深志舞台の舵棒は基本的に竜頭ですが、天保の頃からそうだったのでしょう。

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(大黒町舞台 竜頭の舵棒)                            (二階天井支え板)

私はこの舞台を見るたびに、敬虔な心持になります。百年余に亘り、この見事な舞台と舞台彫刻を大切に伝えてくれた大町大黒町の人たちに、深い敬意と感謝の心を捧げます。

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(大黒町舞台 国営アルプス安曇野公園にて 皇太子殿下御夫妻の植樹祭に際して)

【究極の竜】

最後に山車・舞台ではありませんが、極め付けの竜を紹介したいと思います。

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(子持ち龍)

これは、南信のさる神社本殿の竜です。社殿・彫刻ともに二代目立川和四郎・富昌の作で、文政12年(1829)の建造と伝えられます。所謂「子持ち龍」、前回紹介した半田亀崎・力神車(文政10年・1827)の竜と同じ構図になります。おそらく立川流の最も完成された図柄のひとつでしょう。

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(覆い屋の中の御本殿)

ご覧のとおり、この本殿には正面虹梁がありません。竜自体が虹梁になっています。立川流の社殿建築では時おり見られる手法ですが、このような巨大な竜がそのまま虹梁を構成していると、もの凄い迫力です。しかも、この御本殿は造営竣工から間もなく覆い屋を取り付け、社殿全体を保護しましたので、風雨や日焼けを防ぎ、既に200年近い年月を経過しているにも拘わらず、つい先日彫り上げられたかのよう。木肌の美しさにも驚倒します。

艶めかしいほどの竜の肌は、和四郎の手の温もりをいまだに留めているようにさえ感じさせます。

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(虹梁の竜と左右の脇障子彫刻 盧敖仙人と琴高仙人)

(残念ながら覆い屋内のため光の加減が難しく 質感が十分に再現できません)

「これ、国宝にしたいですね。」と、案内してくれた若い宮司さんが言いました。

諏訪大社の社殿と彫刻が先でしょうが、その価値は十分にあると思います

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