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舞台保存会だより49 本町4丁目舞台の修理始まる

2012年3月 9日

本町4丁目舞台の修復始まる

去る2月8日、深志神社神前にて魂抜きの神事を行い、本町4丁目舞台の解体修理が始まりました。15台目、いよいよ最後の「平成の舞台修理」となりそうです。

舞台保存会による平成の舞台修理事業は、平成15年よりスタートしました。平成11年に東日本鉄道文化財団より支援事業として認定を受け、事業助成金を得て会の舞台保存活動は本格化します。平成13年には、深志舞台他18台の舞台が「松本城下町の舞台」の名称で松本市の『重要有形民俗文化財』に指定され、舞台修復に際しては市から多額の助成金が交付されることとなりました。(註)…記事末尾

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(天神まつりに深志神社境内に並ぶ舞台 左手前2番目が本町4丁目舞台)

松本市文化財指定書

(「松本市重要有形民俗文化財」の認定証書)

これにより深志舞台を文化財として相応しく修復・伝承すべく策定されたのが「平成の舞台修理要綱」です。平成15年3月に、舞台保存会の内部規定として定められました。

要綱はその目的を『この要綱は、松本深志舞台保存会加盟その他、舞台保存会に参画する町会の舞台が、「松本市重要有形民俗文化財」に指定されたことに伴い、文化財の保護、保存、活用を図り、末永い松本の文化の継承と発展を図ることを目的とする。』と定めています。以下「修理内容」「修理費補助規定」など、修復に関する方法論や助成規定と共に、「舞台修理審査委員会」という機関を置くとしています。

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(舞台修理審査委員会風景 修理方針検討会)

平成の舞台修理事業で特に重要だったのは、この「舞台修理審査委員会」の存在で、舞台修理に当たっては建築や文化財の学識者を始め、修復に当たる職人技術者たち、そして保有町会が委員会を構成し、それぞれの立場から意見を述べ、修理方針を決定してゆきました。この過程は、補助金を支出する松本市・教育委員会にとっても、安心で納得のゆくものではなかったかと思います。

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(竣工直後の博労町舞台〔平成11年改修〕)

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(本町3丁目舞台〔平成15年改修〕改修ビフォー・アフター)

(この2台は要綱より前に修復を行ったため、審査委員会の過程はありませんでした)

要綱に沿って実施された修復舞台第1号は、平成16年に行われた「飯田町1丁目舞台」で、以後12台の舞台が次々に改修を行い、この度「本町4丁目舞台」がドック入りすることとなりました。要綱の「修理期間」という項目には『平成15年度より毎年1台を目途にし、20年計画とします。』と記載されていましたが、10年足らずで完了することになります。

これには当時の有賀松本市長の理解があって

「16台もある舞台を毎年1台ずつではハカが行かぬから、年に2台のペースでやればよい。」との指示で、毎年2台分の予算を確保してもらったことが大きく、極めて順調な事業遂行となりました。

認証式-集合写真

(平成11年6月26日 東日本鉄道文化財団よりの支援事業認証式)

(前列右から二人目 認定証を持つのが当時の会長・太田勝彦氏、隣が有賀前松本市町)

それにしても当初は、いくら補助金が出るとは云っても費用の半分は自前で、町会負担も大きいことから、果たして幾つの町会から舞台修復に手が挙がるか危ぶみました。よほど傷みが進んで運行が難しい舞台でなければ、なんとしても修復を、という機運にはならないものです。

ところが一二の舞台が修復を終えてみると、その出来栄えの素晴らしさに、皆度肝を抜かれました。ビフォー・アフターではありませんが、姿形は同じはずなのに全く別物のよう。殊に木曽の漆塗りは素晴らしく、あのボロボロに色褪ちした舞台が、まるで鏡のように美しい光沢を放って照り映えます。果たして新造時もこれほど美しかったか?

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(飯田町2丁目舞台のビフォー・アフター 平成18年改修)

舞台町会には急速に修復の機運が高まりました。

補助金があるうちにとか、隣の町もやったから、といった日本人的なメンタリティーにも後押しされて、次つぎと舞台が修復の門を潜ります。正直なところ、まだ修理には早いのではないか、いったい何処を修理するのか、と首を傾げたくなる舞台も何台かあったのですが、補助金と美しさと横並び意識には抗し難かったようです。

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(本町1丁目舞台 平成20年改修) (改修前の本町1丁目舞台)

そんなわけで多少変な問題もありましたが、この修復事業により、舞台が美しく甦り、それと共に町の人々の中に舞台に対する愛情と誇りが深まったことは、今回の事業の最大の成果だったのではないかと思います。松本のような古い城下町でも、舞台のような祭りのアイテムが、町会ごとに備わっているというような町は矢鱈にありません。今回の舞台修復を機に、舞台を核とした町の人々の絆と、地域愛が深まることを、まずは希望します。

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(本町4丁目舞台 天神まつりにて)

そんなわけで本町4丁目舞台の修復ですが、この舞台は姿かたち・構造とも本町5丁目舞台とほとんど同一で、全くの姉妹舞台と言えます。制作年次も明治初年頃と伝えられ、これも5丁目と変わりません。寸法を採ると若干本町5丁目舞台の方が大きいようですが、あくまで測ってみると、というレベル。幕や人形を外して骨組みだけにすると、さてどっちだっけ、という2台です。

いや、ひとつ大きく違う点があります。御所車式の外輪です。この御所車輪、本町5丁目の輪はたいへん大きく、測ってみると外径が133㎝もあります。深志舞台の中で最大径の車輪です。対する本町4丁目舞台はちょうど100㎝。これはまず標準的な輪のサイズです。車体に対する車輪のバランスが2台の姿を別けるようです。

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(本町4丁目舞台と5丁目舞台 側面図)

舞台の構造については、以前本町5丁目舞台の修復記事の中に記しました。(舞台保存会だより37)台輪部分のない、マッチ箱に横から車軸を通したような構造です。これでよく壊れないな、と感心しますが、全く軽量舞台の賜物でしょう。

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(北参道より曳き込まれる本町4丁目舞台)

2月8日、魂抜き神事の朝、神社北の天神舞台庫から曳き出された4丁目舞台が、北参道を通って境内に入ってきます。曳き手はいません。舞台の後ろを見ると、町会長以下僅か3人で押してきます。舵も切って。なんと3人で動くのです。慌てて手を貸しましたが、つくづく軽い舞台なのだな、と感心するというか呆れてしまいました。

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(舞台修理審査委員会風景 松本建労会館作業室)

舞台修理審査委員会は、2月28日の午後、例によって清水の松本建労会館で行われました。本町5丁目の時と同じく、彫刻など全くない、少ない部材が作業台の上に整然と広げられています。錺金具は小さな段ボール箱2つにまとめられていました。

目立つ部材は面取りした角に金のストライプを施した四隅の柱ですが、あちこちに丸い穴が開いています。補強用の長軸ボルトを通した穴でした。

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(解体され並べられた舞台の部材)

審査委員会では、この補強のあり方が問題になりました。この本町4丁目舞台は昭和55年にやや大掛かりな改修を行っています。おそらくその時取り付けた補強具でしょうが、元来はない筈の部品ですから、見た目からもできたら外したいものです。しかし、外したら強度的に持つだろうか?

土本先生は補強を外すことには慎重な意見でした。後世の造作とは言え、おそらく必要あって取り付けられた補強材である、外してしまったら、運行する中で下部が開いてワゴンが保てなくなる可能性がある。

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(本町4丁目舞台構造図 土本研究室による)(舞台下部 台輪のない構造と補強材がよく分かる)

土本先生の懸念は、例の台輪のない舞台構造によるものです。(舞台保存会だより37

先生は「土台」という言葉を用いていましたが、土台を持たない舞台とはシャシーのない車のようなもので、基本的にはありえない構造です。しかし建築物、中でも古い神社建築などにはこの土台のない建築があり、宮形が磐座(イワクラ)の上などにそのまま置かれたと言います。祭礼の時だけ設置される、移動・仮置きを前提とした建築物。それが最も初期の神社建築の祖形とされますが、本町4丁目舞台もそれを思わせる下部構造となっています。

「元もとは車輪の付いていない、所謂『担ぎ舞台』、或いは『置き舞台』だったのではないでしょうか。」

先生の指摘は私には思ってもみないことで、改めて祭礼における舞台の機能ということを考えさせられました。

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(本町1丁目の「あめ市舞台」 ご覧のとおり現在は動いていない)

この手の舞台は屡々「あめ市の舞台」と呼ばれ、正月のあめ市に曳き出されていました。一方でこれら舞台の制作された明治初年頃、本町4丁目も5丁目も深志神社例祭に曳き出す、所謂「金舞台」も所持していました。

4丁目舞台が池田下町に売却されたのは明治27年。現在の舞台の制作年が明治初年で正しいのなら、およそ20年余に亘って町会は2台の舞台を所有していたことになります。

なぜ2台の舞台を持つ必要があったのか。かねてから疑問でしたが、舞台ごとに目的と機能が違ったのです。

その当時、あめ市の舞台がどのような運行をしていたのか分かりません。あめ市拝殿の隣に2階に松を建てて置かれていただけ、とも聞きます。であれば舞台曳き回しというような行事もなく、必ずしも車輪は必要でなかったのかも知れません。その場で組み立てられ、置かれただけとも考えられます。そのうち、

…移動と片付けに便利だからと輪を付ける。

…これは軽くて取り回しも良い。

…一方「金舞台」は重くて運行も大変。

…天神まつりも「あめ市舞台」で済ましてしまう。

…金舞台は庫入りのまま。

…使わないなら邪魔だし売っちまえ、2丁目もこのあいだ大町に売っ払ってたし…。

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(池田町1丁目舞台 元・本町4丁目舞台で明治27年、池田に売却された)

仮説ですが、そんな舞台変遷・売却ストーリーもありそうに思えます。実際4丁目の古い方の話によると、金舞台を池田に売却したのは、重すぎて運行が大変だったから、と伝えられているそうです。

審査委員会終了後、山田棟梁に輪の件を訊くと、棟梁も土本先生と同じく元は車輪のない『置き舞台』と見ているようでした。但し、補強ボルトについては思う処があるらしく、

「大丈夫、うまくやるで。」

腕組みして自信ありげに頷きます。宮大工のプライドが胸の中に燃えているようでした。

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(修理審査委員会・現場審査会で説明する山田棟梁)

(註)現在深志神社氏子町の舞台は16町会16台です。この16町会が平成7年に「松本深志舞台保存会」を結成しました。東日本鉄道文化財団の支援事業認定もこの16舞台が受けています。

一方、「松本城下町の舞台」の名称で市の文化財に指定されたのは、女鳥羽川北の「東町2丁目舞台」と「六九町舞台」を合わせた18台です。このうち東町2丁目は平成19年に保存会に準加盟しており、現在松本深志舞台保存会は17町会で構成されています。

平成の舞台修復事業は「伊勢町1丁目」と「宮村町1丁目」が比較的近年修復(改造)を行ったことを理由に見送りを表明しており、したがって17台中15台の修復を以って完了することとなります。

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