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舞台保存会だより56 深志神社石玉垣を廻って

2012年9月16日

深志神社石玉垣を廻って

本年度事業計画に従い松本深志舞台保存会では、来月10月6日に「はんだ山車まつり」に視察旅行の予定です。保存会会員ほか関係者30名ほどで出掛けることになりましょうか。日帰りとはいえ、会で旅行など私が事務局を受けて以来初めてです。

「はんだ山車まつり」は5年に一度の開催、2日間で約50万人の人出があるといいます。山車を観に来たのか人を観に来たのか、ということにもなりそうですが、山車まつりとしては超弩級のイベントです。精々山車をめぐる人々の熱気に打たれてきたいと思っております。

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(深志神社拝殿と石玉垣 その北側)

ところで近頃、深志神社社殿回りの玉垣に、一本興味深い柱があることに気がつきました。拝殿に向かって正面左側、「松本町清水 氏子中」の親柱から始まる最初のスパン、その筆頭に「尾張亀嵜港 稻生治右衛門」と刻まれています。尾張亀嵜港はもちろん現在の半田市亀崎のことでしょう。以前にも紹介した『潮干まつり』の亀崎です。 (舞台保存会だより32)

その亀崎の治右衛門さん、いったいどういう縁があって松本の神社に玉垣柱を奉納したのでしょうか。そもそもこの稻生治右衛門とはどういう人なのか。とりあえず亀崎の間瀬恒祥先生にこの旨を伝え、玉垣の写真を添えて照会を乞いました。

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(正面左側の玉垣) (稻生治右衛門の石柱)

すると間もなく間瀬先生より返信があり、稻生治右衛門は亀崎の古くからの醸造家である由。古い亀崎町誌の記載を添付して送ってくれました。

その町誌(昭和20年刊)によれば稻生治右衛門は酒造業で、創業はまことに古く天明元年(1781)とあります。酒造業であれば酒を売ったのでしょう。松本も江戸時代から酒造りが盛んでしたが、中京地方の酒を買うこともあったのでしょうか。

書面の中で間瀬先生は「驚きとご縁を覚えました」と述べておられました。私も同感です。細かなことまでは分からぬながら、およそ100年も前に松本と半田の商人との間に交渉があったことに、少なからず感慨を覚えました。

おそらく稻生治右衛門は商いの関係で松本の商人とつながりがあり、その松本商人が神社の玉垣造営に際して、治右衛門に声を掛けたのでしょう。信仰心厚い治右衛門は、さっそく求めに応じ、玉垣柱一本を奉納したものと思われます。

声を掛けた松本の商人が誰だったのか。世話人の誰かも知れませんし、同じ玉垣の中に名前の刻まれている誰かだろうとは思います。更に推理してみたいものです。

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(世話人の名を刻んだ角の柱) (拝殿南側の玉垣)

ところでこの石玉垣の造営年次ですが、確かな記録がなく、はっきりしたことが分かりません。玉垣のどこにも年号が刻まれていないのです。

ただ、明治32年『菅公一千年御正忌祭』の深志神社境内を描いた図には、それと思われる玉垣が描かれていますので、この時既に在ったことは間違いなさそうです。そしてこの絵図には、一千年御正忌祭に奉納建立されたとされる鳥居や、ほか幾つかの造作物も描かれていますから、玉垣自体もこの時の造営だった可能性があります。

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(深志神社略図(部分)「明治三十二年四月菅公千年御正忌祭ニ就キ製図」とある)

また、玉垣建造の世話人には、十数名の名が刻まれていますが、その筆頭には「堅石由十」の名前があります。堅石由十翁は文久元年(1861)の生まれ、大正6年(1917)に没しています。伊勢町の人で、県会議員や市会議員も務め、深志公園の招致造成など、明治期に多くの社会活動を行った人物として知られます。また、深志神社の初代氏子総代会長とされる人物です。堅石翁の年齢なども考慮すると、石玉垣の建造はやはり明治32年(1899)の菅公一千年御正忌祭の折ではなかったかと推測します。

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(堅石由十の肖像 40歳ぐらいかと思われます)

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(堅石由十翁の頌徳碑 まつもと市民芸術館の南側)

ところで、この玉垣が世間で少々有名なのは、稻生治右衛門の玉垣とは反対側、向かって右側の社殿南面に立つ数本の石柱に因ります。

「越後国糸魚川町 四十物商中」と刻まれた4本の大柱。糸魚川の四十物商より奉納されたものです。これは日本海と山国信州を結ぶ流通街道「塩の道」を象徴するモニュメントとされます。

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(拝殿南側の玉垣 大柱には「越後国糸魚川町 四十物商中」と刻まれている)

四十物は「あいもの」と訓むのだそうです。相物・間物とも書かれます。生ものと干物(乾物)の中間の海産物、サンマやアジの開きのような干物魚のことを言ったようです。

昔は、それもつい4,50年前まで、松本のような山の中では鮮魚など食べられませんでした。海魚といえば干魚や塩漬けがすべてでした。これを扱ったのが四十物商です。ですから松本で流通する海魚はほとんどがこの四十物であり、その供給先は大半が糸魚川の四十物商人だったと思われます。

糸魚川の四十物商にとっても、松本はおそらく最大のお得意さんでした。信州の流通の中心地であり、人口も多く町自体の消費の多かった。どれほどの荷駄が越後の海産物を背負って、狭隘な千國街道を越え、塩の道を松本へ向かったことでしょう。

その商都松本の萬商守護神・市神社を祀るのは深志神社です。深志神社の玉垣造営の話が伝わった時、糸魚川町四十物商中は、喜んで奉納を申し出たのではないでしょうか。大きな柱4本。当時幾らだったのか分かりませんが、今なら200万円位でしょうか。松本の商人達も驚いたことと思います。

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(「四十物商中」の玉垣)

この「四十物商中」の玉垣は時々見に来る人がいます。塩の道を歩いたり研究している方。特に糸魚川市から来て、態々見に寄られる方が多いです。そんな方を案内して話をしていますと、糸魚川の神社にも松本からの奉納物があることを教えられました。石灯籠だといいます。一度出掛けて、その石灯籠を見てみなくては、と思っておりました。

三年前の秋だったと思います。友人と一緒にその神社、糸魚川市の天津神社を訪ねました。天津神社は「糸魚川市一の宮」と称しています。一の宮と謂えばふつう国の一の宮で、例えば「信濃国一の宮 諏訪大社」といったものですが、市の一の宮とは変わった言い様です。町全体の守護神社という意味なのでしょう。市民と神社の近い関係を伺わせます。

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(天津神社)

天津神社は糸魚川市役所のすぐ裏手の小高い丘の上に鎮座しています。正面参道の石段を登ると青空が広がり、運動場のような広い前庭の奥に、大きな茅葺屋根を載せた神社拝殿がゆったりと建っていました。

神社の、それも拝殿が茅葺屋根というのは珍しいことです。しかもその茅葺屋根は分厚く、破風の作りも独特、丁寧な仕上がりで本当に見事です。廻り込んでみますと御本殿は銅板葺きでしたが、彫刻も飾られた立派な社でした。隣に奴奈川姫を祀った奴奈川神社も並んでいます。

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(茅葺屋根の天津神社拝殿)

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(天津神社御本殿とその向拝部 左手奥は奴奈川神社)

正式参拝を終えてから宮司さんに伺うと、例の石灯籠は市役所の方に抜ける境内奥の参道脇にある由。裏の参道を降りて行くと木立に囲まれ、茂みの傍らに2本の石灯籠がありました。高さおよそ2.5メートル、神社らしいシンプルな角型の石灯籠です。

灯籠の柱正面には「信濃 松本 魚問屋」と刻まれ、その下には7名の奉納者の名前が見えます。横山、鷲沢、吉沢、滝沢など、当時の松本の魚問屋のようです。そして側面には「明治三十三年庚子四月」と奉納年もはっきり確認できました。間違いなく、深志神社への石玉垣奉納に対する返礼でしょう。四十物を始め豊かな海の幸を齎してくれる海辺の神への、感謝を込めた報賽であることは言うまでもありません。

わざわざ糸魚川まで訪ねた甲斐がありました。

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(松本から奉納された石灯籠)

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(灯籠柱の刻銘 個人名も刻まれています)

宮司さんによると、以前は拝殿前の、あの広い前庭に建っていたそうです。しかし、いつに時代にか裏の参道脇に移されました。

天津神社は4月の例祭に神輿がぶつかり合う「けんか祭り」で有名ですが、同じく拝殿前で行われる国の重要無形文化財指定「天津神社舞楽」も名高く、境内前庭には楽舞台と共に仮設の桟敷席も築かれ、多くの観客で埋まるそうです。前庭の広さには意味があり、石灯籠はやはり邪魔になったのでしょう。

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(天津神社拝殿正面)

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(拝殿の向かい側に建つ変わった建物 衣紋所と舞楽の楽屋)

かつての華やかな役割は終え、今はひっそりと片隅に建つ石灯籠ですが、歴史を伝える遺物として並ぶその姿には、一種涼やかな趣がありました。

こうした石造物を通じて残る昔の商人達の交流は、むろん商売のためでもあったでしょうが、寧ろもっと強く無垢な信仰心を感じます。

塩の道は海と山とを結ぶ流通の道、商いの道です。そして商いは物をつなぐ道であると共に、人と人をつなぐ道、人の心をつなぐ道でもありました。心の道は信仰へとつながります。

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(天津神社に残る石灯籠) (「本町四丁目 瀧澤仙作」この名は石灯籠にも見える)

昔の商人たちは、もちろん商いを生業とし、利益を的に日々を過ごしていたのでしょうが、その心を支えていたのは強い信仰心であり、同じ信仰心を通じて各地の商人と結ばれ、そのつながりが信頼と商いを保っていたのだなと思います。

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