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舞台保存会だより58 唐子について

2012年11月14日

唐子について

今年の夏に修復を了えた中町3丁目舞台は、たいへん華やかでおしゃれな舞台ですが、その魅力の一つは個性的なテーマによる彫刻の面白さにあります。特に一階の手摺り部分に廻らされた風俗画彫刻『こども四季遊びの図』は、他に類例がなく、極めて興味深いものです。以前にも指摘しましたが、これは制作当時(明治29年)の作者が意図した、新しい「唐子遊び図」だったのではないでしょうか。(舞台保存会だより46

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(中町3丁目舞台)

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(一階手摺り部分の『こども四季遊びの図』)

唐子や唐子遊びの図というのは古くから題材で、絵画や陶芸の世界ではよく描かれました。社寺の彫刻としても江戸時代には屡々彫られています。山車彫刻でも何台かに一台は、唐子があしらわれます。その意味では手垢に染まった素材とも言えるでしょう。

新しい時代のハイカラさを目指した中町3丁目舞台の作者は、唐子のそんな匂いを嗅ぎ取って、写実的な子供遊び図を企図したのかも知れません。

しかし唐子図と子ども遊び図とは、単に表現の新旧を競うといった表面的な違いではありません。子ども遊び図は明らかに風俗画の範疇に属する具象画ですが、唐子図は禅画や水墨山水画の世界にも通ずる一種の抽象画です。可愛らしい唐子の裏に広がる世界は、意外に深いように思われます。

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(こども遊び図と池田町2丁目舞台の唐子遊び図)

深志舞台の中で唐子の彫刻を積載しているのは、本町3丁目舞台です。本町3丁目舞台は昭和13年の制作、太田南海が設計を手掛け、大きな鷁(ゲキ)の彫刻を車の先頭に配して舞台全体を水鳥に見立てた全く斬新な舞台です。スタイルだけでなく塗りも極彩色。錺金具など各部の意匠も独自のデザインで華やかに彩られた、まさに南海ワールドの舞台です。

その斬新な設計とスタイルの本町3丁目舞台、その左右の支輪部に刻まれているのが「唐子図」です。それも全く伝統的な図像の唐子遊び図です。大胆で超近代的な舞台の彫刻が、因習的な唐子図というのもなんだか皮肉な感じで、この辺太田南海はどう考えての選択だったのでしょうか。

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(本町3丁目舞台)

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(本町3丁目舞台の先頭「鷁」) (支輪部の彫刻「唐子遊び」)

唐子たちの遊びは、禽飼い、独楽回し、将棋に泉水で舟遊び、木馬を使って戦遊び、そして「司馬温公の甕割り」図など、どれも昔からよくある唐子遊びの題材です。

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(本町3丁目舞台「唐子遊び」彫刻)

ところでこの本町3丁目舞台の彫刻は、今ひとつ’感じ’ではありません。絢爛たる舞台本体に眼を奪われて、相対的に存在感が薄いせいもありますが、はっきり言って唐子自体があまり可愛くありませんし、南海彫刻独特のシャープな切れ味とか、見る人をその世界に誘い込むような蠱惑的な魅力が伝わってきません。同じ唐子にしても、本町2丁目舞台の背面に彫られた張果老の唐子とは、雲泥の差です。彫刻には太田南海作と銘も打たれていますが、南海にしては調子が出なかったのか? 或いは舞台自体の建造管理に追われて、彫刻に集中できなかったでしょうか。

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(本町2丁目舞台の唐子 張果老が瓢箪から駒を出す様子を見ている)

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(本町3丁目舞台の唐子 同じポーズの女の子がいます)

ところが最近、弟子の洞澤今朝夫さんの回想記を読んでいましたら、本町3丁目舞台の制作についての記事があり、それによればこの舞台の彫刻は、ほぼ総てお弟子さんの手になるもののようです。洞澤さん自身も持送りの麒麟や、正面勾欄下の菊花を彫り、唐子彫刻はまた別のお弟子さんが彫ったそうです。もちろん師匠の監督指導の下ですが。

やはりそういうことか、と納得しました。また、少し安心もしました。この舞台についてはデザイナーとしての太田南海を観るべきで、彫刻家・南海を探してはいけないようです。

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(3丁目舞台の菊花彫刻とキリン 洞澤さんが彫ったのだそうです)

唐子の群像図は、現在の深志舞台に限ればこの本町3丁目舞台だけですが、遡れば、もと伊勢町の舞台・現下波田の舞台には、まことに素敵な唐子が彫られています。かつては、伊勢町舞台として松本の街を曳かれていた舞台であり、唐子彫刻です。

この舞台については以前その彫刻と共に紹介しました。(舞台保存会だより5)

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(下波田舞台 もと伊勢町舞台で明治10年に下波田に売却されました)

下波田舞台の唐子は一階の手摺り部分に描かれていますが、遊ぶ唐子の躍動感が素晴らしく、駆けまわる子供たちは画面から飛び出してきそうで、思わず息を呑みます。また女の子たちのしぐさ・様子も実にチャーミング。その嫋やかな彫り様は、子どもが好きで子供の可愛らしさというものを見続けた人の表現なのだなと思います。

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(下波田舞台の一階手摺り彫刻「唐子遊び」)

ところでこの舞台の唐子彫刻には、『伏籠の禽(フセゴノトリ)』が彫られています。『伏籠の禽』 は竹籠の中に飼われる鶏を描いた透かし彫りの彫刻で、そのとおり網目状の籠彫刻の中に鶏が彫り込まれるといったものです。すなわち、まず木材に籠を彫り、次にその網目の隙から鑿を加えていって中の鶏を彫るという作業になります。極めて精緻な彫刻技術と、根気のいる仕事。まさに職人技術の粋を示す技ということができます。

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(下波田舞台の正面手摺り「鶏と唐子」)

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(『伏籠の禽』の彫刻 籠の中には鶏が一羽彫られている)

この『伏籠の禽』図、実は近県に有名な作例があります。ひとつは高山の屋台、春の高山祭に曳かれる上一之町下組「麒麟臺(キリンタイ)」の「唐子群遊彫刻」。作者は高山を代表する彫刻家・谷口与鹿(1822~64)です。与鹿の唐子群遊図は、改めて採り上げたいと思っていますが、伏籠の禽の部分はやはりそのハイライトで、谷口与鹿の超絶的技術を示す例として、最も多く紹介されています。

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(高山「麒麟臺」と唐子群遊図 『伏籠の禽』の部分)

そしてもう一例は、半田市の成岩・東組「旭車」の壇箱彫刻「唐子と鶏」の中に彫られています。作者は二代目立川和四郎富昌(1782~1856)。大きな籠の中に親子の鶏が、くっきりと彫り込まれています。

和四郎の伏籠の禽は、回りの竹籠の目が大きく、その分与鹿のものと比べると難度が低そうにも見えます。しかしあまり細かい目では、中の鶏が見にくくなり、技術は示せても彫刻としては十分に見る人を堪能させられません。そんな配慮もあり、鶏は籠の制約を全く感じさせない鑿捌きで精密に彫られ、外の鶏以上に生き生きと餌を啄ばんでいます。

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(半田成岩・東組「旭車」とその壇箱彫刻「唐子と鶏」)

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(旭車の『伏籠の禽』 この彫刻は壇箱の左側面に彫られている)

谷口与鹿と立川富昌と謂う斯界史上の巨人が競作した伏籠の禽は、共に弘化2年、3年(1845,46)の制作とされます。(谷口与鹿の「唐子群遊図」は弘化2年、富昌の「唐子と鶏」は弘化3年の制作と伝えられる)どちらが先か後かという議論もありますが、ほとんど同時の制作というべきで、或いは二人申し合わせての競作か、とも推測されます。

富昌は上二之町中組の屋台「五台山」に竜の彫刻を入れていて高山で仕事をしていますし、与鹿は立川の影響を強く受けていますから、二人の間に交流があり、

「乃公は今度、腕試しに籠に入った鶏を彫って見やうと思うのだが、どうだ、貴公もひとつやってみないか。腕比べをしやうぢゃないか。」

なんぞという会話があったのかも知れません。もちろん私の勝手な想像、空想です。

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(与鹿と富昌の伏籠の禽 唐子の表情も個性的です)

一方、下波田の舞台は安政年間(1854~59)の建造とされますから、与鹿や富昌の仕事から10年ほど下ります。おそらく高山と半田彫刻の噂を聞いた作者が、自分もその腕を示したかったのでしょう。

どうだ、と言わんばかりの細密な彫刻。但し、この伏籠の禽は籠の網目が極めて細かく、技術のほどは認めますが、如何せん中の鶏が見えません。彫刻自体のサイズが小さいこともあり、苦労の割には十分なパフォーマンスが得られていないのは残念なことです。

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(下波田舞台の伏籠の禽 鶏が彫られているのが何とか判るでしょうか)

このように素晴らしい下波田舞台の唐子彫刻ですが、作者ははっきりしません。この舞台は伊勢町の原田幸三郎が棟梁と伝えられますので、ならば彫刻も幸三郎か息子の原田倖三(蒼渓)と考えるのが順当です。しかし、確認はできません。使われている彫材も欅ではなく、たぶん楠か何かで、この地方には珍しい材と見えますから、或いは後年の追加という可能性もあります。

何れにせよ少々謎を含んだ彫刻と言えます。

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