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舞台保存会だより62 天満宮御鎮座400年について

2013年3月24日

天満宮御鎮座400年について

 

深志神社の天満宮御鎮座400年祭記念事業として、境内の改修工事が始まりました。舞台とは直接関係ありませんが、舞台行事は神社への奉納として行われるものではありますし、境内の模様替えは舞台の運行にとっても重要なことですから、この「たより」の中で紹介したいと思います。

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(改修工事が始まった深志神社境内) (お詫び看板)

今回の事業は主に石畳の改修を行います。境内の参道・石畳は傷みが目立ち、参拝路として不具合が増していました。石の割れや缺けもさることながら、あちこちに隆起や陥没が生じ、神前の石畳では雨が降ると大きな水溜りができます。更に雨量が増えると正面参道に雨水が集まり、石畳の上を川となって流れて行きます。通路ではなく水路の機能を果たしており、人は石畳を避けて歩行するという有り様。

凸凹も多く、杖を突いて歩いてくるような老人には危険な参道でした。

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(改修前の参道) (古い石畳を外したところ)

何度か部分修理しようと試みたこともあったのですが、石工工事というのは甚だ高直で、どうしてもイケない部分を何カ所か直すだけで数百万円もかかります。なかなか手を付けかねていました。それが今回、400年祭の記念事業を検討する中、参拝しやすい境内を整備するということで、全面改修(新修)することになったわけです。

石畳は新しい石で正面参道から拝殿前、北参道まで敷き替えます。今まで繋がっていなかった部分も足して、歩きやすい整然とした参道が出来上がることでしょう。4月中には石畳工事は完了の予定です。

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(明治32年 菅公一千年御正忌祭境内図 二の鳥居辺から石畳が敷かれていることが分かる)

深志神社の石畳は古いところではどうやら明治32年から敷かれているようです。御正忌一千年祭の境内図にはそれらしい石畳が見えます。またこの度取り外された石畳の仕切り石には年号と奉納者が刻まれていました。

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(掘り出された仕切り石と側面の刻字)

向かって左側面に「明治三十二年四月」右側面には「敷石 幅 一間半 長 二十五間餘 寄附 當所横町 井澤屋市次郎」と読めます。寄付者の井澤屋さんとはどういう人か判りませんが「横町」とあるのは、中町1丁目の内、現在大橋通りとなっている大橋から中町通りまでを繋ぐ通りが、かつて「横町(ヨコマチ)」と呼ばれていたそうです。横町は東町から下ってきた街道が中町通りに屈折してゆく幹線通りで、かつては松本に出入りする人と物流の大半がここを通りました。短いながら賑やかな通りだったそうです。商売も盛んでした。井澤屋は中町の横町通りの、おそらく商家なのでしょう。

それにしても幅・一間半(2.7m)×長さ・二十五間(45m)という長大な石畳を、市次郎さん一人で奉納したのでしょうか。明治32年の菅公一千年御正忌祭には、氏子町会単位で鳥居やら石灯籠やら、多くの記念物が献納されていますが、個人の奉納としては最大のものと思われます。

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(大橋通の交差点から見た中町通り) (中町1丁目舞台 この奥が横町)

明治32年(1899)という年は菅原道真公が神去されて千年目という天神社にとって記念の年で、全国の天満宮では様々な奉祝行事・事業が行われました。深志神社でも大型の石造物は大半がこの時に造営されました。

それから百年余、平成14年(2002)には菅公御正忌1100年祭が全国的に斎行されます。10年前の大祭は記憶に新しいところです。深志神社は盛大な奉祝行事とともに、社殿の大掛かりな改修と塗装の塗り替えを行いました。

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(平成14年 菅公御正忌1100年祭の風景)

ところで今回の天満宮御鎮座400年祭ですが、これは深志神社固有の由緒によるものです。深志神社に天神さま(祭神・菅原道真公)がお祀りされてから、平成26年でちょうど400年となります。これが深志神社の「天満宮御鎮座400年祭」です。

深志神社の創建は南北朝時代の暦応2年(1339・建武の新政より6年目)とされます。小笠原貞宗公による勧請・造営で、この時祭神として奉斎されたのは諏訪明神でした。

その後、応永9年(1402・足利義満の全盛期)小笠原長基公が京都北野神社より天満天神を勧請し、井川城外・鎌田の地に祀ります。これが当地での天満宮奉斎の最初です。そして慶長19年(1614・江戸時代の初め)小笠原秀政公(1569~1615)がこれを深志の地に移し、宮村宮(諏訪社)・天満宮と並べ、文武の守護神として祀りました。

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(鎌田にある旧鎌田天満宮跡地 明治42年に深志神社に合祀されました)

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(現在は碑が2基残るのみ) (奥は小さな公園になっていました)

これが400年前で、深志神社は茲に現在に至る形態を整えます。慶長19年は大坂冬の陣の年。翌20年は夏の陣で戦国の最後の余燼が消えます。7月には改元があり元和偃武。平和の到来と共に天満宮は深志の地に鎮座したことになります。江戸時代は学問が尊ばれましたから、深志神社は「天神さま」と慕われ、城主をはじめ士庶遍く崇敬を集めました。

深志の天神さまは平和と新しい時代の象徴と受け取られたのではないでしょうか。

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(『深志天満天神之碑』 裏には「清水氏子中建之」とある)

ところで深志神社北参道脇に『深志天満天神之碑』という石碑があります。これも明治32年に建立された記念碑ですが、深志神社に天満天神が祀られた由来が記されています。文は伯爵・小笠原長幹氏(1885~1935・豊前小倉城主の裔)。その一部を写しますと

『往時我祖小笠原右近大夫貞慶 天正十四年遷鎌田村菅廟于荘内宮村神社之北 造営社殿 崇敬特厚 後慶長十九年秋八月 小笠原兵部大輔秀政 再修営之称曰荘内天満宮…』

この碑文によれば天満宮が鎌田から遷されたのは、天正14年(1586・本能寺の変から4年後)ということになります。遷したのは小笠原貞慶公。それから28年後の慶長19年に小笠原秀政公により再度祀り直されたということになるようです。

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(『深志天満天神之碑』碑文)

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(篆額 安井正格 同名で「礼法故実便覧」の著者あり 小笠原礼法の研究者か?)

これをどう解すべきか。おそらく貞慶公による遷座の際は宮村神社(当時の深志神社の呼名)の北の地に、別の神社として天満宮を祀っていたものを、秀政公が本殿二座のひとつの神社として祀り直したということではないかと考えます。深志神社の古い由緒書きにも『…(天満宮)社殿を宮村社の右座に遷し重修して宮村両社と称え…』とあります。いずれにせよ、歴代の小笠原氏には天神信仰に厚いものがあり、守護神として祀ることに心を砕いていたことが伺えます。

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(深志神社本殿 奥が宮村宮 手前が天満宮)

小笠原貞慶(1545~95)という人は戦国大名の中でも極めてドラマチックな境遇を生きた人です。天文20年(1551)、父小笠原長時が武田晴信に敗れ筑摩・安曇の領地を失うと、貞慶は僅かな供回りと共に各地を流浪することになります。(この時まだ6歳)

摂津では身を寄せていた城が信長に攻められ落城。一たびは城を枕に討ち死を覚悟するなど、艱難に遭いながらも各所を転々。小笠原家再興のため東奔西走します。

軈て天正10年、武田氏が滅亡し、続いて本能寺の変により織田氏が没落すると、権力の空白を生じた信府に舞い戻り、旧臣の支持を得て松本城主に復帰し、貞宗公以来の父祖の地、安筑の旧領を回復しました。実に浪々33年。鎌倉以来の守護大名が戦乱で逐われた故地を回復し、大名として復帰したという例は、極めて稀なことです。

この時、貞慶は苦難の末に父祖以来の旧領に復したことを喜び、「深志」と呼ばれていたこの地を「松本」と改めました。松本という地名には貞慶の万斛の思いが込められているのです。またその経営にも力を尽くし、城下町松本の町割りを定めたのも貞慶とされます。

小笠原貞慶という人は、筑北地方の平定に当たっては苛烈な仕置きもあり、毀誉褒貶のある人ですが、松本という都市にとっては命名者であり、その礎を築いた人物でもあります。小説に仕上げたいような波乱万丈の生涯も興味深く、松本市民にはもう少し知られてもよい名前ではないかと思います。

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(境内工事中の深志神社)

天正14年の天満宮遷座は、旧領回復に対する貞慶の感謝・報賽の顕れだったのでしょう。

しかし、戦国の常で好い廻りは長く続きません。天正18年、家督を譲った秀政が下総・古河に転封となります。松本は8万石、古河は3万石。甚だしい減封ですが、これは小笠原家が徳川家の譜代大名となっていたため、太閤差配による徳川の関東移封に従わざるを得なかったためで、松本を回復することができたのも徳川家の後ろ盾あってのことですから、やむを得ないことでした。松本には皮肉にも、嘗て徳川家を出奔し秀吉の許に奔った石川数正が入封してきます。貞慶は秀政に従い下総に下りました。

文禄4年(1595)貞慶は下総・古河の地で没します。大名としての復権は成し得たものの、一度は苦節の末に取り戻し、自ら「松本」と命名した故郷を、結局手放さざるを得なかった晩年の貞慶の心中は如何なものであったのか、察するに余りあるところです。

時代は進み、秀吉の死と関ヶ原合戦の結果、世は徳川の天下となり、大名の運命も変わります。当然ながら東軍方であった小笠原秀政は、戦後いったん信州飯田に加増移封の後、慶長18年、石川氏改易を受けて三たび松本に返り咲きます。既に貞慶はこの世に在りませんでしたが、秀政は宿願の旧領回復を父の霊前に報告したことでしょう。

翌慶長19年8月、碑文に依れば秀政は深志神社に天神を祀り『再修営之称曰荘内天満宮』という造営を行いました。小笠原父子の天満天神に対する情熱の深さが窺えます。

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(『河辺文書』慶長19年の天満宮遷座を記した古文書と境内絵図 御正忌1100年祭にて)

しかし翌慶長20年、大坂夏の陣に臨んだ小笠原秀政は、天王寺口の激戦で豊臣方の猛攻に遭い、嫡子忠脩は討ち死、自身も深手を負い戦死してしまいます。真田幸村等の死闘にも見られるとおり、結果が見えていた戦さとは云え、最後の合戦に臨んだ武士たちの奮戦は凄まじいものだったようです。

小笠原家の家督は二男忠真に安堵されました。神社の由緒に依れば『(忠真公は)戦勝帰陣の後、(深志神社に)宝器、社領等を寄進され、更に奉斎の誠を捧げんと南深志十三ヶ町産子へ命じ山車舞台を造らせ、社前へ曳き入れて各々舞人をして奏楽せしめ…』ということになります。そして元和3年、二万石の加増を受けて忠真は播州明石へ転封、更に豊前小倉十五万石へと栄転してゆきます。以後、小笠原氏が松本に戻ることはありませんでした。

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(御神宝『菅公像(厨子)』小笠原秀政公の甲冑の守護神と伝えられる)

小笠原貞慶・秀政父子は天神信仰厚く、重ねて深志神社に天満天神を勧請、修営しましたが、残念ながらそれぞれが十分にその加護に与かる、という結果にはならなかったようです。家は栄えて存続しましたが…。

思い浮かぶ聊か皮肉な格言があります。曰く

『触らぬ神に、祟りなし。』

天神・菅原道真が元々祟り神として祀られたことを思えば、強い崇敬心に依るとは云え、神の移転、遷座などは極めて避けるべきだったのかも知れません。

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