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舞台保存会だより74 飯田町一丁目の舞台

2014年4月19日

飯田町一丁目の舞台

江戸時代の終わり、あるいは明治の初めには、天神の舞台は13台であったと謂われます。この数は、松本城下町・南深志の親町・枝町の数に対応しており(本町・中町の親町8町、伊勢町ほかの枝町5町)一町が一台ずつ舞台を保有していたことになります。

現在は16台ですから明治以降3台増えています。これは川北の六九町のように、新たな町が新たな舞台を造って増えた、ということではなく、町の分割により町会の数が増え、その町会がそれぞれに舞台を保有したために増えた、ということのようです。

その町会分割があった町というのは伊勢町と飯田町でした。

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(天神まつりに境内に整列した深志舞台)

伊勢町は一町だったのが、まず上丁、下丁に分かれ、いつか1丁目、2丁目、3丁目の三町に分かれました。そして、それぞれの町会が舞台を持ちました。旧伊勢町舞台は1丁目に引き継がれた模様で、伊勢町2丁目と3丁目は新たに舞台を築きました。これで2台増えます。

飯田町もかつては一町だったのが、1丁目、2丁目に分かれました。それぞれが舞台を保有して、ここで1台増えます。

以上で合計3台。飯田町に新しい舞台ができたのが明治18年、伊勢町2丁目と3丁目が舞台を建造したのは明治25年(1892)と伝えられますから、この年を以て深志舞台16台体制が整ったことになります。

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(伊勢町の3舞台 手前から1丁目、2丁目、3丁目。 一番奥は本町1丁目舞台)

そしてこの時増えた3台の舞台を、私は『明治中期の舞台』と分類したいと考えています。

今回はこのうち飯田町の舞台、特に飯田町1丁目舞台について取り上げたいと思います。

飯田町の舞台は1丁目舞台が明治18年の建造、2丁目舞台は明治5年ごろの建造とされています。2丁目舞台の方が古いわけで、町会分割以前はこの舞台が『飯田町舞台』でした。それについてエピソードが伝わっています。

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(飯田町1丁目舞台)       (飯田町2丁目舞台)

明治の初めごろ、人口や戸数の増加が原因と思われますが、飯田町は町を分けることになりました。境を切って北(上丁・1丁目)と、南(下丁・2丁目)に二分し、町の財産も別けられるものは別けました。しかし舞台は二つにするわけにはいきません。舞台の所有については双方譲らず、結局くじ引きで決めることになりました。その結果、2丁目が舞台を引き当て、飯田町舞台は飯田町2丁目舞台として引き継がれました。二分の一とは云え賭けに勝ち、舞台をゲットした2丁目は祝杯を挙げたことでしょう。

一方、治まらないのは飯田町1丁目です。「舞台なし町会」になってしまいました。

悔しくてならず、やはり舞台がなくては、と建造したのが現在の飯田町1丁目舞台です。

町会分割がいつ行われ、新しい舞台がいつ企画されたのか、残念ながら分りませんが、いずれにせよ明治18年が新しい舞台の竣功ですから、明治10年代中頃のことではないかと推測されます。

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(修復される以前の飯田町1丁目舞台)

このような経緯で建造された飯田町1丁目舞台は、本町4,5丁目舞台や伊勢町1丁目舞台などの所謂『明治初期の舞台』と異なり、やや小ぶりながらも装飾性に富んだ、深志舞台らしい舞台になりました。江戸時代の大型舞台に比べるとサイズはぐっと小さくはなりますが、当然のことながら二階屋根があり、前後左右に小屋根が付いて床の張り出しもあります。装飾はあるべき場所に木彫刻が施され、要所に錺金具が付きます。さらに、控えめながら塗りの一部には貝摺り(細かく砕いた夜光貝の粒を漆に混ぜて塗り、磨き出す螺鈿技法)もあしらわれています。

この、やや小ぶり(中型)ながら装飾が盛ん、というのが『明治中期の舞台』の特徴だろうと思います。幕末から明治初期にかけての革命動乱の時代が一服し、あらためて舞台という祭礼文化に関心が向く、そんな時代になってきたということではないでしょうか。

深志舞台は江戸時代後期にその頂点を迎え、伊勢町の原田親子や立川流の匠により見事な舞台が築かれましたが、明治初期にその伝統は瓦解します。大型舞台は運行できなくなり、軽くて簡素を極めた簡易型舞台が建造されてゆきます。(舞台保存会だより72

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(飯田町1丁目舞台の曳行風景)

しかし舞台というものは、やはり華がなくてはならない。牛や馬が牽く運搬車両ではないので、曳き回す人が誇れるような体裁でないと、人の心も燃えません。リアルでダイナミックな彫刻、眩くも繊細な飾り金具、眼にも綾な塗りなど、心を浮き立たせるような装飾がないと祭り舞台とは言えません。

明治18年(1885)、飯田町1丁目舞台はおそらくそのような意図のもとに建造されました。スケールこそ江戸の舞台には及びませんが、御維新以来久々に舞台文化の復活を目指して制作された、明治期における最初の本格舞台です。現在では16台の中に紛れると埋没してしまいそうな少々地味な舞台ですが、深志舞台の歴史の中では重要な意味を持つ舞台だと思います。

更に、建造から120年を経て行われた修復においても、飯田町1丁目舞台は重要な役割を担いました。平成の舞台修復事業が本格的に始動したのは、この舞台からです。

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(平成16年6月 第3回松本市舞台サミット 於まつもと市民芸術館)

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(挨拶する斉藤会長)

飯田町1丁目舞台は平成16年から17年に掛けて大改修を行いました。舞台保存会が企画した新しい舞台修理方式、『舞台修理プロジェクトチーム』による最初の修復となりました。信州大学土本研究室による舞台調査もこの舞台からです。

平成16年1月の末に土本研究室による舞台調査が行われました。舞台の精密な図面が出来上がり、4月に初めての「舞台修理審査委員会」開催。そして平成16年6月26日に竣工したばかりの「まつもと市民芸術館」で、『第3回 松本市舞台サミット・舞台の解体実演式「舞台の上で舞台を解体?!」』と銘打って飯田町1丁目舞台の解体を行いました。

プリツカー賞受賞の伊東豊雄先生設計になる最新のオペラハウスのステージに立った最初の俳優は、なんと齢120歳のオンボロ舞台でした。

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(修復前の飯田町1丁目舞台 平成16年の舞台サミットにて)

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(挨拶をする保存会役員 今は亡き両・太田さん) (信州大学・土本先生)

今考えても乱暴なことをしたものと思います。市民芸術館は本当に建物が竣工したばかりで、杮落しも未だでした。そのメインステージに古臭いボロボロの舞台を曳き据え、あまつさえ、そのステージ上で大工仕事で解体をするとは…。申し訳ないような、ひどく場違いなことをしているようなと感じて、罪悪感にさえ駆られたものです。

開会セレモニーの後、舞台はステージの奈落からせり上がってきました。スポットライトを浴び、まるで千両役者のようです。それにしても赤い芸術館の観客席をバックにステージ上に現れた舞台の美しかったこと。参加者全員からオーッと感嘆の溜息が洩れたのを覚えています。

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(芸術館ステージ上に現れた飯田町1丁目舞台)

別に舞台自体が美しかったわけではなく、芸術館とその光の演出が素晴らしかったからですが、あれが平成の舞台修復事業が始まった瞬間のように感じて、今でも瞼の裡に焼き付いています。

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(奈落を使った舞台解体作業風景)

解体実演が始まると、舞台は衆目の中、上下する奈落をうまく使って解体されていきました。まず唐破風型の二階屋根が外されます。外された屋根を裏返しにして天井板を外すと、そこに墨書が現われ再び大きなどよめきが起こりました。舞台の建造年次、世話人や主な奉賛者名、大工名が鮮やかな筆文字で顕れ、はっきりと読み取れました。

この時「舞台新調 明治十八年七月吉日 飯田町上丁」の記載が確認され、飯田町1丁目舞台の建造年次がはっきりしたのです。また同じ墨書から、明治41年に舞台庫の建築と舞台の修繕が行われていたことも、確認されました。

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(建造年次が記された舞台二階屋根の裏側 世話人4名と大工棟梁の名前が確認できる)

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(明治41年の舞台修繕についての墨書)

実はそれまで、飯田町1丁目舞台の建造は明治35年ということになっていました。舞台保存会の発足当初に作成された「16町会舞台資料」という調査パンフレットがありますが、その中でも制作年をはっきり「明治35年」と謳ってあります。町の言い伝えということでしたが、どうしてそういう年号が伝わったのでしょうか。

当時、保存会の副会長で、飯田町の長老でもあった大野貞夫さんは、ステージの上で墨書を見て唖然としていました。保存会を主導して「16町会舞台資料」の編集に携わり、飯田町1丁目舞台の建造が明治35年と確言していたのは大野さん自身です。

「だって、俺は親爺たちから、そう聞いてきただで…。それに俺は婿だし…。」

『悪態(あくて)の尾張屋』と呼ばれ(自称し)、常にケンカ腰の大声で周囲をビビらせていた大野さん(尾張屋さん)が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、弁解するように呟いていたのを可笑しさとともに思い出します。(舞台保存会は引退しましたが、尾張屋・大野さんは今もご健在です)

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(尾張屋・大野貞夫さん なにか叱責するように学生を指導している)

平成17年5月に飯田町1丁目舞台は見事に竣工しました。あのヨレヨレだった舞台が新造のように蘇り、輝きを取り戻した姿は各舞台町会に衝撃を与えました。それは舞台修理プロジェクトの実力を示して、舞台修復が次々と行われてゆくきっかけとなりました。

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(修復竣工式での飯田町1丁目舞台)

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(テープカット?!こんなセレモニーもやっていたみたいです)

あの芸術館ステージでの解体から、もう10年経ちます。この10年間に怒涛のように舞台修復が行われ、現在宮村町1丁目舞台が最後の修復を行っています。なんだかあっという間の10年間で、あの舞台解体サミットもつい先日のことのような気がして、まだ感慨のようなものも湧いてきません。しかし、後世はこの十数年間の舞台修復を、深志舞台の歴史の中で特筆すべき事跡として記録することでしょう。

その平成の舞台修復事業の嚆矢を担った舞台として、飯田町1丁目舞台は、勇気ある記念碑的舞台となりました。明治期の本格的深志舞台の口火を切った舞台でもあり、冠するならば「魁(さきがけ)」という名が相応しい。『魁車・飯田町1丁目舞台』

作者や彫刻など飯田町1丁目舞台の魅力については、次回に続けたいと思います。

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(平成17年5月 飯田町1丁目舞台竣工式にて)

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