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舞台保存会だより79 謎の舞台、飯田町2丁目舞台

2014年9月30日

謎の舞台、飯田町2丁目舞台

4月の「たより」で飯田町1丁目舞台をとり上げた際、ふと思いついて舞台に綽名をつけてみました。『魁車(サキガケシャ)』というのがそれですが、もちろん勝手な命名で、私的な慰み以上のものではありません。ただ、深志舞台は16台もあるのに、それが皆「○○町△丁目舞台」と称するばかりで、名前を聞いただけでは実にイメージがわきにくい。ならば特徴的なニックネームを付けてみようかと思い立ち、つけてみたのですが、如何でしょうか。名前の由来に説明が要りますか…。(舞台保存会だより74

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(飯田町2丁目舞台と舞台人形「蘭陵王」)

その伝で隣町の飯田町2丁目舞台に命名するなら『陵王車(リョウオウシャ)』で決まりでしょう。舞台人形に舞楽の蘭陵王を載せていますから『陵王車・飯田町2丁目舞台』。解りやすくてゴロがいい。かっこいいと思いませんか?

舞台・山車の名前、ニックネームというものは、ある地域では必ずあります。半田など知多地方ではたいてい『○○車』。所属も町でなく組で表し、例えば『石橋組青竜車』とか『中切組力神車』とか、少し強面な感じですが、名前を聞いただけでイメージがわきます。車名は、施された主な彫刻や幕の意匠など、山車の装飾に由来することが多いようです。

飛騨高山の屋台は『△△台』という呼び名が多い。『琴高台(キンコウタイ)』とか『鳳凰台(ホウオウタイ)』など、豪華な呼び名は聞くだけで高山屋台の華やかさが彷彿とします。

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(半田亀崎の山車『潮干まつり』) (高山の屋台『春の高山まつり』)

また、『□□山』と称される山車も多く、長浜をはじめ近江・美濃地方の大型の山車は「山」の付く名が多かったと思います。「車山」車偏に山と書いてヤマと訓む、勝手にそんな国字を作っている祭りもありました。京都祇園は「鉾」でしょうか。

全体に「車」の山車はスピード系で、曳き回しの華やかさを競うものか多い。「台」や「山」「鉾」の山車は、どちらかというとゆったりと動き、山車自体の華やかさや、そこで行われる芸能で人を堪能させるものが多いように思います。

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(岐阜県養老町「高田まつり」の曳車山(ひきやま))

しかし、長野県内には私の知る限り、そのような呼び名の付いた山車は一台もありません。「○○町舞台」がせいぜいです。これはどうしてなのか?呼称をもちうるほど大した山車ではない、ということでしょうか?しかし他の県の、全国的に名の通った山車まつりの山車でも、町の名を冠するだけで特別な呼称のないものも多くあります。なぜなのか、一度整理してその理由を考えてみたいと思っています。

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(修復前の飯田町2丁目舞台 平成16年頃の姿 相当ボロボロです)

ところでこの陵王車『飯田町2丁目舞台』というのは、謎の多い不思議な舞台です。

何がというに、16台の中に紛れると普通の舞台に見えるのですが、よく見ると深志舞台のセオリーに沿わない舞台である。どこか素性の違った、よく見たら外国人!といった感じの舞台なのです。

飯田町2丁目舞台につきましては、1丁目舞台の紹介でも触れましたが、もともと飯田町が一町会であった時代からの、元祖・飯田町舞台です。したがってその建造は古く、明治5年(1872)と伝えられます。これは町の伝承なので確証はありませんが、舞台の所有を争って負けた飯田町1丁目が、新たに舞台を造ったのが明治18年ですから、それ以前から在ったことは確かで、大きく違った話ではないでしょう。(舞台保存会だより74

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(修復直後の飯田町2丁目舞台 平成18年から19年にかけて修復されました)

飯田町2丁目舞台の特徴は、まず屋根が唐破風屋根であること。これは建造当初からなのかはっきりしませんが、もしそうであるなら深志舞台の中で最も古い唐破風屋根舞台、唐破風型のハシリと謂うことができます。深志舞台は起り型屋根が基本で、唐破風屋根が現れるのは多分明治以降です。

また、一階部分の床が前方に広くせり出している。これは車輪の構造と関連しているのですが、床と手摺が前に幅広く出ているため、正面から見たとき飯田町2丁目舞台はワイドで押し出しがよく、とても立派な舞台に見えます。

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(二階唐破風屋根の向拝部) (一階正面の手摺り)

次に車輪ですが、飯田町2丁目舞台は前輪が小さく後輪が大きい。また前・後輪とも外輪式である。これが大きな特徴です。

深志舞台は前輪が大きく、台輪の外側に付く外輪式、後輪は小さく台輪の内側に付きます。これは江戸時代の古い舞台から昭和の舞台まで変わりません。明治初期建造の簡易型舞台も同様で、いわゆる信州松本型舞台の最も大きな特徴です。

県外各地の山車を見ると輪の付き方は様々ですが、外輪式なら前後とも外輪式、内輪なら前後ともが内輪式というのが普通で、前後で内外輪が違い、更に車輪のサイズが違うというのは山車の世界ではたいへん珍しい形式です。

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(飯田町2丁目舞台の車輪部分) (三輪車である伊勢町1丁目舞台の下部)

これは舞台が三輪であった名残りで、深志舞台はもともと前二輪・後一輪の三輪車でした。伊勢町1丁目舞台や大町大黒町舞台は現在でも三輪のまま残っていますが、三輪となると必然的に後輪は内輪で小型ということにならざるを得ず、安定性のため多くの舞台が後輪を二輪とした後でも、基本的の内輪・小型の形式が維持されたためと思われます。

ところが飯田町2丁目舞台は四輪外輪です。そして前後の輪のサイズが逆。大した違いではないように思えますが、車輪システムが違うということは種類の異なる山車ということです。即ちこの舞台は他の深志舞台と発生を異にしている、と考えられます。

深志舞台の形質はかなりまちまちで、サイズ・形態とものバリエーションに富んでいますが、基本構造は変わりません。外見で、例えば本町3丁目舞台と本町4丁目舞台は全く違いますが、輪の付き方、柱の立ち上がり方は同じなのです。しかし、飯田町2丁目舞台だけはどうも違います。他の舞台たちと兄弟ではないのかも知れません。

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(飯田町2丁目舞台(中央)天神祭にて やはり幌は外してほしい)

平成7年に舞台保存会が設立された折、最初に行なった事業が、「16町会舞台資料」の作成でした。各町会にアンケート式の調査票を提出してもらい、平成8年の1月にまとめて発行されています。

この「舞台資料」の中で飯田町2丁目は舞台構造について次に様な報告をしています。

『二階建・前後車輪四ヶ・正面が広く後は狭い。立川流彫刻師により組み立てられる。舞台は牛が牽引し前輪が左右に動くようにつくられ… …他町とは違っていて前が広く後ろが狭く(座る所)なっているので、前輪は小さく後輪は大きくなっている。明治の中頃に前輪の心棒を固定して前の牛の牽引部分を取り除き、後にカジ取り棒を二本新しく取り付けた由である。…』

また制作年の欄には

『明治5年(京都にて制作)』とも記されています。

驚くべきことに飯田町2丁目舞台は、もともと京都で製作され、牛に牽かせた山車である、ということなのです。

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(牛牽引用の器具を取り付けたとされる舞台下部の部品)

この舞台資料を提出したのは、平成24年に高齢100歳で逝去された村上忠雄先生ですが、村上先生は嘗て庄屋をしていた町の古老から伝え聞いたと識しています。(村上先生の原文は少しニュアンスが違い、『製作年月日は定かでないが明治初年頃(明治5,6年ごろ)京都にて…』と語られ、組み立てた大工も『諏訪の彫刻師初代立川氏の師匠の手にて製作…』と、微妙な表現をされている。)

実際に舞台には現在でも牛に曳かせるための牽引器具を取り付けたという部品も残っています。また、高山あたりならともかく、京都で造られ、立川の彫刻師が組み上げたというのも、思いつきにしては大胆過ぎて、逆に信憑性が感じられます。これに類する山車が京都周辺にあるのでしょうか。

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(修復前の舞台人形「蘭陵王」とその面)

(面は目が無くなってしまっており、蘭陵王というより不気味な骸骨王でした)

牛に山車を牽かせるということは、現在では想像もつきませんが、江戸時代、江戸の神田明神・山王権現の祭礼では、山車は牛に牽かせていたといいます。

江戸の山車は将軍家の御膝元、天下祭りということで非常に華やかだったそうです。しかし、あまりに華美に走ったため度々幕府から規制を受け、それでも江戸時代は賑やかに続きましたが、明治を迎えると急速に衰えました。社会や街並みの変化と、豪華すぎる祭礼行事が負担となり、次第に曳かれることが少なくなったといいます。山車・舞台を曳くということは、建造費もさることながら人手と金と手間がかかることなのです。

牛に牽かせるというのも、その調達や世話が町には大きな負担だったようです。そして大正12年、関東大震災(1923)により江戸天下祭りの山車は、悉く被災し消滅しました。

このあたり巨大隕石の衝突により絶滅したとされる恐竜の運命と相似ます。

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(蘭陵王人形の素顔 面の下にはこんな人がいました)

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(修復後の蘭陵王人形 目もついて立派になりました)

江戸の山車は。現在では川越の山車が最もその形態が近いとされます。但し川越の山車は四輪。江戸の山車は多くが左右の二輪だったようです。牛が牽く場合、四輪だと曲がるとき前後どちらかの輪を引きずりますから、二輪が最も安定した動きになります。

飯田町2丁目舞台は四輪ですが、『前輪が左右に動くようにつくられ…』ていた由。たぶんステアリングの機能があったのではないでしょうか。

この機能は牛が牽く時には好都合だったと思います。西洋の馬車では馬の進む方向に舵を切る機構が発達していました。この舞台にも似た仕組みがあったのでしょうか。

ところが人が曳くことになって『前輪の心棒を固定して前の牛の牽引部分を取り除き、後にカジ取り棒を二本新しく取り付け』ました。人が曳く場合は、ステアリング機能があると舞台が左右にぶれて挙動が安定しないからでしょう。

ステアリングの舵から舵棒による持ち上げ式の舵へ移行するとは、文明史的に退化でしかありませんが、山車というものはそうしたものです。エンジン付きの自走舞台にまで進化すれば、是非とも必要な機能ですが…。

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(天神祭で 飯田町2丁目舞台の引き入れ風景)

ところで飯田町2丁目舞台は江戸東京でなく、京都で造られたとされます。京都の山車といえば祇園祭の鉾を思いますが、牛が牽いているものは見たことがありません。かつては牛に牽かせる式の鉾もあったのでしょうか?

また京都といえば平安時代の牛車が思い出されます。牛に車を牽かせる文化は日本で最も古いはずです。山車のまつりは祇園祭に始まるとされますし、牛車と山車の関係もどのようにつながるのか、興味を惹かれるところです。

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(深志神社境内 博労町奉納の「牛小屋」と「神牛」原田蒼渓刻)

(舞台とは関係ありませんが、とりあえず牛ということで…)

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