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舞台保存会だより82 黄初平と蘇武

2015年1月31日

黄初平と蘇武

今年は平成27年乙未で、干支の動物は羊ということになります。歳が改まると舞台彫刻に彫られている動物のことを思い浮かべてみますが、羊はあまりありません。十二支をすべて刻んだ勾欄周りの彫刻などには登場しますが、羊を主に彫ったものはほとんど思い当りません。イエス・キリストを守護神とした山車があれば、盛大に羊の彫刻が彫られると思うのですが…。

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(今年の深志神社の干支絵馬) (こちらは靖国神社の絵馬)

深志舞台の中で羊の彫刻が掲げられているのは飯田町1丁目舞台です。二階勾欄下・支輪部左側面に長細く彫られた彫刻、題名は「黄初平(コウショヘイ)」と伝えられます。ひどく老いさらばえた老人の周りに羊が群れる図ですが、黄初平とはどのような話なのでしょうか。

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(飯田町1丁目舞台)

神仙譚ですので時代は定かでありません。いずれ紀元前の古代中国の話です。現在の浙江省付近と思われる丹渓という地に、黄初平という者がおりました。年は15歳で、家では羊飼いをさせていましたが、ある時一人の道士に見込まれ、連れて行かれます。神仙術の道に入りそのまま四十数年、黄初平は家を思うことがありませんでした。

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(飯田町1丁目舞台の勾欄下彫刻 題名は「黄初平」とされる)

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(羊と老人・黄初平?)

さて、黄初平の家では突然初平とともに羊も消え去ったので、驚いて八方手を尽し捜しますが行方は分りません。初平の兄の黄初起は、何年も弟の初平を捜し続けましたが、或る時、市で出会った道士に問うと、

『姓は黄で名は初平、その者ならば金華山の石室におる。』とのこと。金華山を訪ねると初平は仙道修行に励んでいました。その姿は別れた40年前と変わりません。

『羊はどうしたのか。』と初起が尋ねると、

『羊は山の東方にいますよ。』と初平の答え。

黄初起は山(金華山)の東に行き見わたしましたが、白い石が散在するばかりで羊は一頭も見当たりません。

『山の東方には何もなかったぞ。』と初起が伝えると、

『羊はいますよ。兄さんの眼に見えないだけです。』

黄初平はそう言うと山の東に赴き、手にした鞭で白い石を打って

『起て!』と叱ると、白い石は一斉に数万頭の羊となって起ち上がりました。

驚いた黄初起は家を捨て、弟を師として共に神仙の道に入ります。松脂、茯苓などを服用して若さを保ったまま年を重ね、五百歳を過ぎる頃には、ほとんど精霊状態となりました。二人で郷里を訪ねましたが子孫はすでに絶え、黄初平らの名を知る者はありませんでした。

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黄初平の話は葛洪の「神仙伝」にあります。神仙伝のみならず仙人の伝説にはとりとめのないものが多いのですが、黄初平の伝説は非常に印象的です。殊に初平が鞭で打つと白石が数万頭の羊となる、という場面はまさに旧約聖書的で、壮大なスペクタクルを見るようです。長江下流域は石灰岩質の地質が多いですから、金華山の東方というのは、秋吉台のような草地に白い石灰岩が散在する広々とした場所ではないでしょうか。その石が一斉に羊に蘇生して起ち上がるというのは、身震いのするような奇跡的光景です。

また、この物語には時間の圧縮が一つのテーマとなっています。黄初平が金華山の石室に籠って神仙術に集中した時間はあまり長くないはずですが、世間では四十数年が経過していました。桃源郷や神仙郷は俗世とは別次元の大きな時間の中に在る、という思想で「浦島太郎」と同じです。500年後に訪れてみると故郷に知る人はなく無縁の郷となっていた、という結末からも、黄初平の話は浦島伝説の元話なのではないかと考えられます。

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(中町2丁目舞台の持送り彫刻「浦島太郎」)

このように空間的・時間的に雄大な構造を有する黄初平の説話は、好んで禅画などに描かれました。たいてい鞭を手にした黄初平と羊の景色で描かれています。ただ、舞台や山車の彫刻としては珍しく、同じ仙人であるにも拘らず鉄拐や盧敖・琴高などと共に描かれることはありません。

そうした意味で、この飯田町1丁目舞台の黄初平彫刻は貴重でした。彫りも巧みで味わい深く、どこからか蕭条とした音楽さえ聞こえてくるように感じられます。個人的に好きな彫刻の一つで、天神まつりではよく眺めていました。黄初平が老人の姿で描かれているのが少し気にかかっていました。

ところがこの夏、あらためて見ると、黄初平が手を額に翳して、どうやら遠くの方を見つめる様子なのに気が付きました。何を見ているのだろう、と視線の先を辿ると、彫刻の前方には「雁」が飛んでいます。

『さて?黄初平の話に雁なぞ出てこなかったはずだが…』

「老人」と「羊」と更に「雁」。この組み合わせは何なのか?あらためてよく考えると、これは『黄初平』ではなく『蘇武』であると、漸く気が付きました。

これまでも他の町の舞台で何度か彫刻の題材の間違いを修正してきましたが、今更にこんなところにもあったのか、と思わず苦笑いしました。

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(飯田町1丁目舞台彫刻 「雁とその行方を見つめる蘇武」)

(首が取れてしまっていますが、前方に飛んでいるのは雁)

蘇武は有名な話ですから詳しい解説は要らないのかも知れませんが、一応紹介します。

蘇武は前漢の中期、紀元前100年頃の人で、武帝から昭帝・宣帝にかけて漢王朝に仕えました。司馬遷と同時代人になります。したがって史記ではわずかにその名が紹介されるだけで、蘇武の伝記は漢書の「李広 蘇建伝*」の中に記されています。

(*李広は漢の名将で李陵の祖父、蘇建は蘇武の父)

武帝の時代、漢は北方の匈奴と烈しく戦っていましたが、新しい単于の即位に際し和平の機運が兆し、武帝は中郎将の蘇武を使節として派遣します。蘇武は信節を捧持し、匈奴に赴きます。ところが偶々匈奴朝廷に内紛が発生し、介在を疑われ捕えられてしまいます。蘇武は食物も与えられず窖に放置されますが、雪を噛み、着衣の毛を齧って耐えました。

蘇武が死なないのを不思議に思った匈奴は、彼を北海(バイカル湖のことらしい)の畔の無人の地に移し、雄羊を牧養させ、

『羝(オヒツジ)が乳を出したら(仔を産んだら)帰してやる。』と言って置き去ります。

蘇武は漢の信節(皇帝から賜った使節の旗印)を杖として羊を牧し、野鼠を獲り、草の実を食べて飢えを凌ぎ、命をつなぎました。

匈奴は遊牧民の伝統で、民族・敵味方に関わらず優れた人間は登用し、高い位を与えます。すでに多くの漢人が匈奴の朝に仕えていました。蘇武が艱難に耐え、意志の固い優れた人物であると悟った単于は、匈奴に仕えるよう慫慂します。特に降将の李陵を派遣し、漢を諦め匈奴の人となるよう何度も説得しますが、蘇武は肯いません。頑なに節を曲げようとしませんでした。

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(舞台右側に対で描かれている彫刻「太公望」 周の文王が呂尚を訪う場面)

(この舞台は彫刻の傷みがひどい 「蘇武」とともに彫刻は清水虎吉とされている)

武帝の時代の漢は法が厳しく、卿や諸侯とされる人々も小さな罪で財を奪われ、職により十分な成果を出せぬことも罪とされて、多くの功臣、名家が滅ぼされました。李陵などもその口で、並びなき武門の家柄、優れた武将であるにも拘らず、捕えられたことで家族は殺され家は滅ぼされます。

蘇武も同様、二人の兄弟は職務が果たせなかったことを理由に自刃し、妻は再嫁し、他の家族の行方も知れません。そこで李陵は言います。

『子卿(蘇武)はそれでも尚いったい誰のためにそうして(虜囚となって)おられるのか。』

それに対して蘇武は、

『私たち父子は功績もないのに帝は深い思し召しを垂れ、将とし侯として下さった。陛下の為には常に肝脳の地に塗れることを願っています。帝は実の父の如きもの。たとえ斧鉞で首を斬られ、釜で煮られようとも恨みません。(匈奴に仕えることは)二度と仰らないでください』と。

やがて武帝が亡くなり昭帝が立つと、漢と匈奴に和議が成立します。匈奴は蘇武について、すでに死んでいると伝えましたが、漢は蘇武の情報を得ており、

『先ごろ天子が御苑で射猟して雁を得たが、その足に帛書が結えてあり、それには「武は某の沢中におる」と書かれていた。』と単于を責め、生存を認めさせました。

蘇武は19年ぶりに漢に帰還します。使いに出た時は強壮でしたが、戻ったときは髪も髭も真白くなっていました。

中島敦の「李陵」に依らずとも、蘇武と李陵の別れは感動的です。項羽の最期とともに、東洋の歴史文学の中で最も美しい別離場面ではないかと思います。

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(岡谷市のイチヤマカ林家住宅とその書院彫刻「蘇武」清水虎吉作)

中国という国は、孔子の時代から秦・漢にかけて最も高度な文明が華開き、人間も完全な個人が確立しました。したがって蘇武も単なる忠義という徳目に縛られた人ではなく、人が人として生きる道を考え、その上で絶望的な虜囚生活を選んでいます。杖として握る信節は彼の思想であり、命そのものです。こういう高度な個人の成立は世界史的にも稀で、残念ながら、わが国ではまだのように思います。

蘇武の説話は平家物語にも採られており、わが邦でも古くから人口に膾炙していました。ただ、日本では蘇武の苦難に耐える姿を憐れみ、専らその望郷の念に共感を抱く傾向が強いようです。平家物語でも俊寛のくだりと並べて語られ、雁の逸話も、蘇武自身が雁に帛書を結んで存在を知らせた、と創るなど、望郷譚として仕上げています。(漢書の中で蘇武は一度も望郷のことを口にしていません)

しかし、俊寛と蘇武では、まったく逆の説話と言わなくてはなりません。俊寛は裏切りの果てに流罪となって望郷を歎じ、蘇武はたとえ国に裏切られようとも節を全うし、敢て胡地に幽閉されているのですから。

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(飯田町1丁目舞台勾欄下彫刻「蘇武」)

俊寛は鬼界ヶ島の渚で足摺りし、蘇武は北海の畔で信節で羊を追います。文化・民俗性の違いもありますが、どちらにも共感があり、人間世界の広さ深さを感じさせます。

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