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舞台保存会だより90 三郷二木の舞台

2015年10月 4日

三郷二木の舞台

現在は安曇野市ですが、旧三郷村の二木(フタツギ)地区に三柱神社という神社があります。ここは二木と一日市場の産土様で、両地区から氏子総代が出て、もちろん祭りも一緒に行います。9月の例祭には両地区から舞台が曳かれます。

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(例祭日の三柱神社)

三柱神社は深志神社と若干因縁があります。というのは数年前ですが松本市を舞台にした「神様のカルテ」という映画が製作・上映されましたが、この映画の原作「小説・神様のカルテ」に登場する神社は、明らかに深志神社でした。ところが、映画ロケに使用されたのは三柱神社でした。映画監督は人通りの多い市中の神社を避けて、落ち着いた静かな環境を選んだということだと思います。映画はヒットし、続編も制作されました。それだけに舞台を持っていかれた深志神社としては、些か残念な気もしないではありません。

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(三柱神社の鳥居の扁額) (三柱神社参道)

また、神社の由緒についても少々関係があります。

三柱神社の創建は嘉吉元年(1441・室町時代)と伝えられますが、他にも諸説あり、一説では正平年間(1346~70・南北朝時代)信濃守護小笠原貞宗公の勧請とされます。貞宗公による勧請・創建は深志神社と同じで、そうすると深志と三柱は兄弟神社ということになります。(深志神社の創建は、暦応2年(1339)諏訪明神を勧請)

また更に一説によれば、天文年間(1532~55・戦国時代)二木豊後守による勧請とも伝えられます。三柱神社は三柱の神を祀る神社ですから、それぞれの伝承の折に一柱ずつ祀られたのかも知れません。

二木氏は貞宗公の四男・政経が祖で、二木の郷を領しました。その子・小七郎貞明は二木を名乗り、鎌倉攻めや結城合戦に先鋒の将として関東に出陣しています。二木豊後守はその後裔。すなわち小笠原氏の分家、支族となります。いずれにせよ貞宗公の子孫である二木氏により守られてきた神社であり、小笠原氏所縁の神社ということでは深志神社と縁があると云えましょう。

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(三柱神社正面の幟 西川秋象氏揮毫)

(「天雲の向伏す限り」「谷蟇(タニグク)の狭度る極み」古い祝詞の修辞句)

少し寄り道をしますが、この二木豊後守と称される人物は、小笠原長時・貞慶に仕えた二木重高とその嫡子・弥右衛門寿斎で、彼らはまさに戦国時代の家臣型の土豪といえます。

二木豊後が祭神を勧請したとされる天文年間は、武田氏の信濃進出が最も激しかった時代で、松本地方も武田の侵攻に屈し、小笠原氏は支配を奪われました。小笠原長時は決して弱い武将ではなかったようですが、調略により内部から切り崩され敗北します。小笠原氏は建武以降に封ぜられて中信に座った大名ですから、周辺豪族との主従関係は甚だ脆弱で、そこを武田晴信に衝かれ、裏切りに遭い府中(深志)を逐われました。

長時は安曇に移って反攻の機会を窺います。このとき最後まで付き従ったのが二木豊後でした。

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(三柱神社拝殿に掲げられた燈篭 二木氏の名が多く見える)

野々宮合戦(天文19年(1550)梓川北大妻・野々宮神社付近での合戦)の後、向後の非利を悟った長時は腹を切ろうとしますが、二木豊後がそれでは忠義を尽くした者たちが浮かばれぬ、と押しとどめます。そしてなお籠城戦の後、長時を越後へ落ち延びさせ、二木豊後は武田に降りました。

豊後父子は善後策を案じ、戸隠山に籠って願を掛け、武田の重臣を介して甲府に晴信を訪ね、詫びを入れます。晴信は『二木一門は憎き仕合と思っていたが、以後忠節を尽くせば咎にもあらず』と言って二木郷の本領を安堵したといいます。小笠原が去った後、二木を滅ぼすことなぞ容易かったでしょうが、忠誠心があり有能な土豪は、新領支配のためにも必要だと考えたのでしょう。

一説には、豊後は長時から『いったん武田の配下となって機会を待て。』と命じられたと伝えられますが、実際にも他に手がなかったのだと思います。

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(三柱神社幣殿の幕 三階菱は小笠原家一門の紋 祭神・新羅三郎命の紋である)

想像ですが、二木豊後が三柱神社に祭神を勧請したとされるのはこの頃のことではなかったでしょうか。危機を乗り越えてなんとか所領を安堵できたことへの感謝と、小笠原家の復活を念じて、勧請と報賽を行ったのではないかと考えます。

新たな祭神として祀られたのは、おそらく新羅三郎でしょう。

三柱神社はその名のとおり三柱の神を祭神として祀る神社ですが、その祭神は、諏訪神、八幡神、そしてもう一柱は新羅三郎義光(シンラ サブロウ ヨシミツ)とされます。新羅三郎は平安時代の武将で、源頼義の子、八幡太郎義家の弟になります。

源義家は前九年・後三年の役に活躍して源氏棟梁家の地位を確立し、その子孫は大いに栄えました。頼朝をはじめ足利、新田など武家の棟梁として幕府を開くのは義家流です。

一方、義光流には武田、佐竹、そして小笠原などがその系譜に連なり、義家ほどではありませんが有力な大名家を輩出しています。すなわち新羅三郎は小笠原、二木の遠祖であり、(武田にとってもそうですが)その祖を祭神として祀るということは、自らの氏族意識を強調して一族の使命を確認し、団結を固めるということでしょう。新羅三郎の奉斎は、二木氏にとって強い意志の表明だったのだろうと思います。

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(二木舞台と、その二階の幕 三階菱紋が大きく飾られ 二木一門を強調している)

その結果は約30年後に訪れます。天正10年(1582)、3月に武田家が滅亡、6月には本能寺の変で、天下は一気に混沌としました。武田、織田が支配した信州は権力の空白地帯となります。松本にも木曽や越後(上杉)の手が伸びました。

このとき二木豊後(子の弥右衛門寿斎)は素早く動いて、三河にいた長時の嫡子、貞慶を招じ入れました。若干の小競り合いはありましたが、二木をはじめ主な豪族の支持を得た小笠原貞慶は深志城を獲り、父祖伝来の府中の地を回復しました。天文以来33年ぶり。このとき貞慶は旧領復帰を喜び、この地を「松本」と命名したといいます。

小笠原貞慶の復帰は英雄譚の如きものと謂えますが、30年余も他国に浪々していた者が、いくら由緒正しいとは云え、単独で旧領を回復などできるわけがありません。最大の功労者は二木豊後でしょう。長時を励まし逃がした豊後重高と、素早く貞慶を召喚し、態勢を整えた豊後寿斎。この二木親子の活躍がなかったならば、大名家小笠原は途絶えていたことと思われます。

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(境内に曳かれてくる二木の舞台 昼の舞台)

松本市博物館に行くと、入り口に「松本の命名者は?」という問いがあり、「小笠原貞慶」と答えるパネルが飾られています。貞慶は「松本」の名付け親であり、また町割りを定めたのも彼の仕事とされます。したがって、もし貞慶が復帰していなかったらこの地は「松本」と呼ばれることはなく、街の姿も大きく違っていたかも知れません。

また、深志神社に天満宮を勧請したのはやはり小笠原貞慶とその子秀政ですから、彼らがいないと深志神社は天神社になっていなかった蓋然性が高い。すると平成14年の「菅公御正忌1100年大祭」も昨年斎行された「天満宮御鎮座400年祭」も関係がなかったわけで、歴史にifは禁物ですが、四百数十年前のわずかな行き違いは、深志神社の運命にも大きく作用していることになります。(舞台保存会だより62

そして、そのキーを握ったのが二木氏という安曇の小さな土豪であるとは…。歴史の妙というのでしょうか。

…随分と長い寄り道をしました。

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(二木・夜の舞台 鳥居をくぐり境内に曳かれてくる)

さて、三柱神社の宵祭りには、二木地区だけから舞台が曳からてきます。一日市場の舞台は翌日の本祭りだけです。そして二木の舞台は夜の舞台と昼の舞台の2台があり、宵祭りに曳かれるのは夜の舞台です。

松本ではまず見ませんが、安曇ではしばしば夜と昼の舞台が別にあり、それぞれ宵祭りと本祭りを分担して出場します。夜の舞台は主に提灯を飾りとした灯篭舞台で造りは簡素、昼の舞台は彫刻や塗りで飾った晴れの舞台、という違いがあります。また、夜は灯篭舞台で昼はお船を曳くというところもあります。どこのお宮でも、という訳ではありませんが、古い地区ほど昼夜を別ける傾向が強いようです。

一台の舞台を持って世話するのでさえ大変なのに、なぜまた2台も持つのか、よく解りません。しかしこれは民俗学的に重要なことなのかも知れないと思います。

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(三柱神社拝殿前で 二木夜の舞台と祭り人たち)

宵祭りの夜8時ころ、きれいに提灯を灯した二木の宵舞台は、若者や子供たちに曳かれ、静かな囃子の音と共にやってきます。鳥居をくぐり拝殿前に引き据えられ、あらためてお囃子が奏でられます。

二木のお囃子は少し物悲しげなメロディーをしています。蕭条とした、とても情感のある音色で、聴いているとどこか切ない、また遠く懐かしい思いが胸に迫ります。安曇地方のお囃子はお船行事で奏されるため、賑やかだったり、攻撃的なものも多いのですが、このお囃子は全く違います。あまり複雑な調子ではありませんが、強い哀調があり、シンミリとします。相当古くから伝わっているのではないでしょうか。

私は三柱神社の例祭でこのお囃子を聞くのが一番の楽しみです。

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(境内での舞台回しのパフォーマンス これは昨年の様子)

拝殿で神事が終わった後、舞台は神前でパフォーマンスを行います。前輪を持ち上げ、後輪を軸に一気に回転。フィギュアスケートの何とかアクセルみたいです。若者たちが勢いよく回しますが、フィギュアと同様なかなか完璧には決まりません。何回か試み、きれいに何回転もすると周囲から拍手が起こります。お宮の前の大道芸です。

パフォーマンスが終わると、舞台はまたお囃子の笛の音に伴われて境内を出ていきます。

社務所で直会が始まるころ、二木の夜舞台は神社の南の県道をゆっくりと曳かれて行きます。境内林の狭間からちらちらと舞台の明かりが見え、笛の音が徐々に遠く、遠ざかってゆきます。祭りとは本当に懐かしいものだな、と感じます。

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(神前を去ってゆく二木舞台 氏子総代が提灯を持って鳥居の外まで見送る)

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