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舞台保存会だより95 諏訪立川展と博労町舞台

2016年3月25日

諏訪立川展と博労町舞台

今回のたよりは、少し重要なことを伝えたいと思います。

昨年10月10日から今春に掛けて、諏訪市博物館に於いて立川流に関する企画展が開催されていました。『諏訪の工匠・立川一門~社寺建築と山車彫刻~』という開催名で、その名の通り、立川の棟梁たちによる彫刻作品、下絵等を展示公開する大掛かりな企画展でした。

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(諏訪市博物館 諏訪大社上社の近くにあります)

中でも目を惹いたのは半田亀崎の潮干まつりに曳かれる山車「田中組神楽車」の展示です。(舞台保存会だより32

2年ほど前にも下諏訪の諏訪湖博物館で、下半田の護王車が展示されたことはありましたが、亀崎の山車、それも全く立川流による山車がやってくるのは初めてです。しかも10月31日に博物館の館内で組み上げるというので、これは何を措いても観なくては、と朝から張り切って出かけました。

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(潮干まつりでの亀崎の山車 向かって右から2番目が田中組神楽車)

当日、諏訪市博物館に着いたのは9時半を少し回った頃でした。もう始まっているのではないかと慌てて飛び込みましたが、まだ場所の準備をしているところで、10時過ぎからいよいよ組み上げが始まりました。

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(転がして並べられた山車の車輪)

(現役の輪は現在、三河湾の泥砂の中、これは展示用の古い輪だと思います)

博物館の入り口脇の吹き抜けホールに、まず大きな車輪が運び込まれ、適宜の間隔に並べられます。その周りに巨大な木鼻のついた分厚い台輪材が置かれ、車軸を通して本当に一から組み始めました。外見は非常にがっちりとした台輪部分ですが、当然のことながら釘は一本も使わず、臍と組手とあとはロープだけで組み上げてゆきます。

台輪は基礎構造で、自動車ならばシャシーに相当します。この上に5m以上もある大きな胴山・上山が築かれ、多くの人が乗って道や砂浜を曳き回されるのですが、考えてみれば大変なことです。重量と曳き回しに耐え、更に振動や衝撃を逃すことができなくてはなりません。構造・造りが硬すぎても柔らかに過ぎても、じきに壊れてしまうでしょう。しかもそれが200年も前の代物です。

匠の技、などと気楽に言いますが、そこには厳密な力学から材料工学まで、実に高度な科学と経験知識が基礎となっており、まさに知恵と技の結晶であるということができます。

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(台輪部分の組み上げ)

深志舞台もかつては舞台を一から組み上げていたはずですが、現在ではそうするところはありません。一年中舞台庫の中で完成した姿で鎮座しています。明治も中期以降の舞台では、すでに解体・組み上げという発想自体がなく、家を建てるように一定の姿で建築されています。江戸時代の舞台である博労町舞台には解体構造が含まれていますが、既に長く行われず、そのノウハウも失われたようです。

県内の舞台で解体組み上げを行っているのは、元松本本町2丁目の舞台である大町大黒町舞台だけだと思います。因みにこの2台は殆ど同時期に建造されています。(神楽車・天保8年(1837)、大黒町舞台・天保9年(1838))

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(元本町2丁目舞台であった大町大黒町舞台) (その彫刻 立川和四郎富昌作)

やがて台輪の上に縦柱が建ち、支輪部が築かれると、山車の周りにたくさんの古い木箱が運び込まれてきました。蓋を開けると中には種別ごとに彫刻が収められています。宮坂昌敬の彫刻です。彫刻は綿や布で大切に保護されており、傷をつけないように一つ一つ丁寧に取り上げられ、手渡しされて、山車の所定の位置に組み込まれてゆきます。見ていて溜息が出るようでした。

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(胴山を構成する縦柱が建てられる 徐々に高くなる山車)

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(山車の周りに運び込まれた彫刻を収めた木箱)

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(箱の中の彫刻)

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(次々と彫刻が取り付けられてゆく)

今回組み上げ展示された半田の山車「田中組神楽車」は、亀崎の5台の山車の中でも特に華麗・精緻で、女性的な優美さをもって知られる山車です。彫刻はすべて宮坂昌敬が受け、彼の代表作であり最高傑作とも謂われます。

宮坂昌敬は立川富昌の右腕といわれ、特に半田を中心とした東海地方では数多くの社寺・山車を手掛けました。しかし、右腕といわれるだけに富昌との共作が多く、彼単独での請負は必ずしも多くはありません。そんな中、この神楽車の彫刻は昌敬が一人で請け負い、すべて彼の意匠で築き上げた山車だと謂われます。

亀崎の山車はすべて彫刻が素晴らしく、甲乙を云々するのは愚かなことですが、洗練された完成度の高さは、他車に一歩抜きん出ていると言えましょう。

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(前山正面 宮形部分) (三国志・桃園の誓いの場面)

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(脇障子彫刻 三国志・阿斗を抱く趙雲) (脇障子彫刻 魏の武将 張郃)

神楽車は全面彫刻で埋め尽くされたような山車ですが、前山と呼ばれる正面宮形部分に施された彫刻は殊に個性的です。正面虹梁上に三国志・桃園の誓いの場面、脇障子にも趙雲・張郃など人気の英雄が描かれています。三国志は昌敬自身が好きだったのでしょうか。ふつう社寺彫刻ではこういうものは描けません。屋根下の懸魚には「玉巵(ギョクシ)」と思われる竜に乗った女性像が彫られていますが、観音像を思わせるような優美な姿で、魅了されます。この山車が女性的と形容される所以でしょうか。

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(前山懸魚彫刻 「大真王文人」と称されるがこの名は由緒不明。琴も見えるので玉巵と思われる)

中でも神楽車を象徴するのは「蘭亭の庭」と称される壇箱彫刻です。その精緻さは信じ難いほどで、一日中眺めていたという職人の逸話も伝わっていますが、心を奪われるというのはこういうことか、と感じさせる作品です。壇箱の中は一つの小宇宙であり、完成した美の空間で、心が入り込むと陶酔して抜け出すことを忘れてしまいます。

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(神楽車壇箱彫刻「蘭亭の庭」)

(水野耕嗣先生によれば、王羲之の蘭亭とはそぐわない処があるので蘭亭と呼ぶのは疑問とのこと)

やがて12時になり、作業も昼休みとなりましましたので、私も食事をした後、時間を見計らって博物館の職員さんに挨拶に伺いました。Мさんという女性の学芸員さんで、以前、梓川横沢の舞台修復で立川の職人名が出てきた際に、調べていただいたことがあります。(舞台保存会だより85)今回の展覧会についても案内をいただいていました。

Мさんは妙齢の美しい学芸員さんでした。名刺を渡して挨拶をしますと、

「ぜひ、ご覧いただきたいものがあります。」と言って、特別展の展示室を案内してくれました。

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(ロビーに展示されていた蘭亭の下絵 撮ってはいけなかったのかも知れませんが…)

展示室はあまり広くありませんでしたが、下絵を中心に立川の棟梁たち、富棟・富昌や冨保、そして富種の資料が数多く展示されていました。

下絵の多くは立川家、立川富種の子孫の家に伝わったものだそうです。下絵は彫刻を彫るための絵図ですから、作品として人に見せるように描かれているわけではなく、しばしば朱も入れてあります。それだけに一層その匠の個性が顕れ、人柄も感じられます。

案内され一回り見てきたところで、ある下絵の前でМさんが足を止めると、

「これは松本の博労町舞台の下絵です。」

と言って2枚の図を示しました。

「えっ、博労町の?…そんなものがあるんですか?」

「ええ、彫刻の写真や大きさも見比べて、間違いないと思います。」

「作者は誰ですか?」

「富種のようです。落款が富種です。」

愕然として暫くその下絵に見入りました。2羽の鷺(サギ)を描いた一枚と、やはり番いの鴛鴦(オシドリ)を描いたものです。近くに博労町舞台の彫刻実物の写真も添えてあります。舞台の左側面、一階手摺部分の彫刻でした。落款も確かに富種と確認できます。

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(博労町舞台 但し当初は別の町の舞台であったと伝えられる)

これまで博労町舞台は、制作年・棟梁とも不詳で、ただ彫刻が『立川和四郎と伝承』とされてきました。しかし、立川和四郎と言っても四代襲名していますので、どの和四郎か分かりません。制作年代も『江戸後期』と伝承されているだけですから、二代富昌か、三代富重か、と推測を巡らすばかりでした。

それが今回下絵の発見によって、少なくとも一部は立川専四郎富種の作であるという可能性が大となりました。

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(下絵が発見された博労町舞台の手摺り彫刻 「鷺」と「鴛鴦」)

(下絵と並べて見比べられればいいのですが…)

専四郎富種は富昌の二男で、宮坂昌敬にも似て彫刻のスペシャリストです。そのため彼自身が棟梁をした仕事は多くありませんが、父・富昌や兄・富重の請け負った社寺や山車に多くの彫刻を入れています。富重作とされる彫刻もほとんどは富種の刀である、という人もいるほどです。(実際のことは分かりませんが、)いずれにせよ、富種という名前がはっきり出たことは驚きであり、また非常に嬉しく感じました。

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(立川専四郎富種 この人はほんとうに天才彫刻師だと思います)

更に後日、学芸員のМさんに調べていただいたところ、博労町舞台の下絵で確実と思われるものがもう2枚あり、それは舞台の反対面手摺りの『波に鴨』の図でした。この鴨の図は、しばしば立川彫刻に用いられる代表的な図柄です。そしてその落款は『富昌』とのことでした。なんと博労町舞台彫刻『波に鴨』の下絵は、二代目立川和四郎の富昌なのです。

博労町舞台の『彫刻は立川和四郎』という伝承は正しく、しかもその和四郎は二代目の立川和四郎・富昌ということになりそうです。

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(博労町舞台 右側面手摺り彫刻 「波と水鳥(鴨)」)

今回の発見はあくまで下絵の発見であり、彫刻自体に刻銘など直接的な決め手があるわけではありません。ですからこれを以て直ちに作者を立川富昌・富種と決めることはできませんが、蓋然性は極めて高いといえるでしょう。

立川富昌・富種がともに活躍した江戸後期の或る時期、博労町舞台の彫刻は立川和四郎が請け負い、富昌・富種父子により制作されたものと思われます。

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(博労町舞台正面の彫刻「鶏」 この下絵は見つかっていない)

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(亀崎・力神車の壇箱彫刻「海棠に鶏」立川富昌作)

博労町舞台は謎の多い舞台ですが、下絵の発見により伝承の裏付けと作者の特定が進んだことは大変な成果でした。

深志舞台の彼是を扱ってこの「たより」を続けていますが、このような重要な発見を報告できるのは、本当にうれしいことです。しかも立川富昌という名は、建築家・造形作家として歴史の教科書に出てきてもおかしくない大変なビックネームですから。

これを機会に、博労町舞台の研究がもう少し進むことを期待しています。

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(山車の隣で神楽を奏する田中組の人たち) (完成した神楽車)

田中組神楽車の組み上げは、午後四時ころ漸く完了しました。少し余分に手間がかかったようです。組み上げの後、町の人たちによりお囃子も演奏されました。

神楽車の彫刻組み上げの仕上げは、壇箱両側に取り付けられる蝦蟇(ガマ)・鉄拐(テッカイ)です。

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(神楽車の妖精「蝦蟇仙人」) (同じく「鉄拐仙人」)

蝦蟇・鉄拐両仙人の彫刻は立川流に限らず、多くの社寺彫刻に登場しますが、この神楽車の彫刻は、最もデフォルメされた戯画的な一対です。ほとんど二頭身半と見えるその身体は、アニメの世界から抜け出てきたようであり、ケルトの妖精のようでもあり、人間本性の極限的なファンタジー表現のようにも感じられます。

小宇宙「蘭亭の庭」の両側に、究極の人間表象「蝦蟇・鉄拐」が鎮座して、神楽車は完成します。

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(神楽車の壇箱部分「蘭亭の庭」と「蝦蟇・鉄拐」)

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