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舞台保存会だより102 古川竜笛台の屋台彫刻について

2016年11月 2日

古川竜笛台の屋台彫刻について

古川の屋台に清水虎吉の彫刻を載せたものがあるということは、かねてから聞き知っていました。その屋台は古川弐之町下組の『竜笛台』と呼ばれる屋台で、古川屋台の中でもひと際大きく豪華な一台だという。以前から一度実見したいと希みつつも、時節柄なかなか暇がなく、願いを果たせずにいました。

竜笛台のことを私に教えてくれたのは里山辺藤井の故坂下与八さんでした。坂下さんは松本市の町会連合会会長も務められた偉い方でしたが、地元の彫刻家・清水虎吉の大ファンで、虎吉と立川流について数冊の研究書も著しています。古川の屋台に話題が及ぶと、細い目をさらに細めて嬉しそうに話されました。

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(坂下与八さん 平成26年7月に逝去されました)

「竜笛台はとても立派な屋台でね。古川の中で一番じゃないかな。虎吉の彫刻も実に素晴らしい。…高山と変わらない立派な屋台に付いているんだからねぇ。」

坂下さんは虎吉の傑作が、県境を越えた飛騨の地にあるということが殊に嬉しかったようです。立川流は信州諏訪で発生しましたが、その匠たちは国を越えて東海や関東、関西でも活躍し、全国にその名を轟かせました。里山辺出身の清水虎吉もその技量が評価され、隣国の、それも素晴らしい屋台伝統を誇る飛騨古川から求められた。そのことが、殊に誇らしかったのだと思います。

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(古川弐之町下組屋台『竜笛台』)

ここで古川竜笛台について簡単にさらっておきますと、現在の屋台は二代目で、明治19年(1886)の建造竣工になります。初代の屋台は安永年間(1778~81)建造の古いものでしたが、さすがに百余年の星霜を経て明治15年に朽ち壊れたため、再建することとなり、明治17年頃より建造をはじめ19年に完成しました。大工棟梁は谷口宗之。この人は永代権守を名乗る名門谷口家の当主で、天才彫師・谷口与鹿の甥にあたります。(与鹿は前当主・延恭の弟)当時飛騨で最も格式高い棟梁といえるでしょう。しかもその下に7人の大工が名を連ね、並々ならぬ意気込みで作られた屋台であることが判ります。

その名門棟梁と肩を並べて、彫刻を清水虎吉が受け持っています。明治17年は虎吉弱冠28歳、現代の若者とは比較できませんが、やはり少壮の彫刻師と云えるでしょう。

竜笛台棟札

(竜笛台の棟札)

それにしてもどうして清水虎吉だったのか?高山にも北陸にも優れた匠がたくさんいるのに、なぜ敢えて虎吉なのか?しかも彼はまだ若く、信州においてもまだほとんど無名だったはずです。それが飛騨からのオファーとは?

それについて坂下さんは、その著作『立川流彫刻 富種師弟作品集』の中で次のように推測しておられます。

『竜笛台建造当時、立川系の彫師は富昌の次男立川専四郎富種(虎吉の師匠)が存命でしたが、…明治の初め以後製作実績がないので、古川町弐之町下組皆様が立川彫刻をご希望されたので、谷口家、立川家の関係もあり、富種は、愛弟子寅吉を派遣したと思われます。』

富種師弟作品集

(『立川流彫刻 富種師弟作品集』平成13年発行 坂下与八著)

恐らくその通りでしょう。

この頃の立川流は、三代目立川和四郎である富重が明治6年に病没し、その子富淳が四代目を襲名していましたが、明治21年に早世します。ここで立川和四郎の名跡は絶え、立川流は柱石となる匠を失って急速に衰退に向かいました。

富種自身も明治21年に72歳で逝去しますが、兄富重の死後は目立たしい仕事は見られません。晩年は病気がちだったともいわれ、すでに高齢でもあり大きな仕事はできなくなっていたのだと思われます。

しかし飛騨においては、二代目和四郎の富昌が高山の屋台『五台山』に獅子の彫刻を入れ、その圧倒的な彫刻力が谷口与鹿など匠たちに強い影響を与えていたため、立川の名は別して高いものがありました。屋台の新築にあたっては『彫刻はぜひ立川のものを。』という希望はあったのだと思います。棟梁の谷口宗之自身からも、諏訪の立川家に彫刻の依頼があったのかも知れません。

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(高山屋台『五台山』とその彫刻)

しかし、立川には既に富種以外に山車彫刻ができる匠はおらず、その富種もすでに引退状態。そこで富種が指名し、まだ若いが腕のある虎吉に白羽の矢が立った、そういうことだと思われます。

ちなみにちょうど同じ頃、明治18年に、虎吉は松本飯田町1丁目舞台に二十四孝他の彫刻を入れており、これが彼の最初の大きな仕事になるようです。

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(飯田町1丁目舞台彫刻 二十四孝『郭巨』と『王祥』)

竜笛台には棟札というものが残っており、建造に与かった匠たちの名が残されていますが、虎吉の名は『信州諏訪 建川和四郎之実弟仙四郎之高弟』と肩書して『彫刻 清水乕吉平成之』と墨書されています。書き振りでは棟梁の谷口宗之と同格。相手は権守です。しかも隣に彫刻の副として『谷口与三郎宗俊』を従えている。この人は宗之の弟になります。28歳の若い彫刻師に対して破格の処遇といえましょう。それほどの待遇で招聘された虎吉の仕事はどのようなものか、虎吉ファンならずとも気になります。

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(平成27年 古川まつり風景)

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(青竜台のからくりの演奏) (屋台の前でお囃子をする子供たち)

昨年の春、漸く機会を得て古川まつりを訪れることができました。4月20日の本祭りです。しかし、残念ながらこの日は雨でした。朝から春の雨が沛然と降り続いています。屋台は曳き出されません。仕方ありませんから、傘を差して屋台蔵を巡ることにしました。

高山でもそうでしたが、雨の日は屋台蔵の扉を開いて、前面だけですが屋台を見せてくれています。いくつか屋台蔵を巡ると、からくりのある屋台では蔵の中からからくりを披露し、また、蔵前に子供たちが並んでお囃子を奏でるなど、観光客を慮ってでしょう、蔵ごとに何かしら催しがなされていました。

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(竜笛台の屋台蔵) (会所らしき建物)

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(屋台蔵の前でお囃子をする子供たち)

弐之町下組となる竜笛台の屋台蔵は、町の中心からやや離れた住宅地の中にありました。頑丈そうな蔵で、隣にももう一つ小さな蔵が接続しています。手前には阿弥陀堂のような形の会所らしき建物があり、雨にもかかわらず町の人々が集まっていました。屋台蔵の前には子供たちが並んで、笛や鉦に合わせてお囃子を始めました。

お囃子が終わった後、暫く外から屋台の正面(背面でした)を観察していましたが、祭りの責任者らしき人にお願いして屋台蔵の中に入れさせていただきました。

蔵の中に入ると目の前に巨大な胴部の彫刻が目前に迫ります。龍、鳳凰、亀、麒麟など霊獣彫刻が、それぞれ波や桐の葉の紋様と共に彫り描かれていました。

彫刻は巨大で、屋台一層目の胴部をいっぱいに使い、堂々と彫られています。龍は波の中から姿を現し、天に向かって飛翔を窺わんとする姿。鳳凰は翼を広げ、まさに飛び立たんとしています。彫刻の大きさもあり、実に堂々とした彫りざまです。

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(竜笛台下段の彫刻)

…しかし、残念ながらこれは違います。虎吉ではありません。龍の顔つきが全く違いますし、波の表現も立川流のそれではありません。鳳凰の周りを取り巻いている桐の葉と思われる彫刻も、たいへん豊かな表現ですが、こうしたものは立川流で見たことがありません。彫刻技法についてはよく分からないのですが、所謂「手が違う」彫で、立川の彫刻でないことははっきりと判りました。

下段胴部を取り巻くメインの彫刻は、清水虎吉の彫刻ではありませんでした。立川流とも違う別流の彫刻です。多分、井波あたりの彫師によるものではないかと思われました。

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(竜笛台中段の彫刻)

さてでは虎吉の彫刻はどこだろうと見まわしますと、勾欄手摺りの部分に、細長く松に鶴、唐子を描いた彫刻が廻っています。しかし、これも虎吉の彫とは全く違います。松と鶴は欄間彫刻を得意とする井波彫刻が好んで取り上げる題材ですから、やはり井波系統かと思われます。但し、これも龍や鳳凰の彫刻とはまた別の手のようです。

更に目を上にやると、中段の上部に高山と同じ極彩色の牡丹彫刻がありますが、これはどう見ても虎吉や立川とは関係なさそうです。

さて、屋台蔵の中でどこを見回しても清水虎吉の彫刻が見当たりません。表に出て見返り幕の両側に彫られている大きな昇り竜・降り竜を見上げました。立派な彫刻ですが、これもやはり違います。可能な限り周囲を回って観察しましたが、竜笛台の中に清水虎吉の彫刻は一つもありませんでした。

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(竜笛台の昇り竜・降り竜 これは背面)

これは一体どうしたことだろうか、虎吉の彫刻はどこへ消えてしまったのだろうと、暫く竜笛台を見上げながら思案に暮れました。屋台蔵の前には木製の由緒書きも立てられ、そこにははっきりと『彫師信州諏訪の人 清水寅吉』と記されています。これを読めば人はこの彫刻が清水虎吉のものと思うでしょう。しかし、これまで松本で虎吉の彫刻を見続けてきた私には、これがはっきりと虎吉と無関係の彫刻であることが判ります。

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(竜笛台の由緒札)

しかし、そうしていても仕方ないので、屋台蔵の中を見せてくれた町の責任者らしき方にお礼を言いつつ、屋台彫刻のことを聞いてみました。その方は70歳前後の温厚そうな紳士で、事情に明るそうな方です。もしや現在は虎吉の彫刻は外してあり、今は現状の彫刻で運行しているとか、そんな事情があるのではないかと…。すると、

「いや、別の彫刻というのはないね。というか今の竜笛台は彫刻もたくさん付いて賑やかだけど、昔は何もついてない地味な屋台だった。彫刻や金具はわりと最近付いたものでね。」

「えっ、昔は彫刻がほとんどなかった?それは何時ごろのことですか?」

「そうさ、50年くらい前かな。今の彫刻が付いたのはそのあとだよ。」

「50年前というと昭和30年代ですが、それ以前は彫刻がなかった…!?」

「まったく無かったわけじゃないんだが…、あまり細かくどこがどうとは覚えていないんだけど、いずれにしても今のように賑やかな屋台ではなかったねぇ。」

明治19年に清水虎吉が彫刻を入れたはずの竜笛台は、いったいどこへ行ってしまったのか。

雨の降りしきる中、屋台蔵の中の竜笛台を見つめて暫し呆然とたたずんでいました。

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(竜笛台と屋台蔵)

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