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舞台保存会だより123 熊倉のお船(つづき)

2018年12月20日

熊倉のお船(つづき)

熊倉のお船彫刻のインパクトは強烈で、暫く胸中を去りませんでした。いったいいつ頃、どんな人物が彫ったのか。よほど桁の外れた男であろうと考えますが、想像の域を出ません。そうはいってもあれほどの作者がまったく無名ということはあるだろうか?と考え、調べてみることにしました。

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(熊倉のお船 このお船は上手地区のお船で もう一台中村地区のお船がある)

松本市図書館で郷土資料のコーナーを探りますと、平成11年刊行の『豊科町誌 民俗編』に『祭礼・芸能/春日神社(熊倉)』の項があり、お船の記述がありました。その一節、

『(御船は)…有名な須々岐水神社のお船を連想させる。元熊倉区長の〇〇〇〇氏(大正十四年生まれ)によると、この「御船」は松本の深志神社の船を譲り受けたものという。…』

見事に「落ち」が付いたようで、ガックリきて苦笑いしました。権威ある町誌に「深志神社の船」と紹介されていては抵抗できません。

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(舞台庫の中の中村地区のお船 もう十数年は曳きまわしていないようです)

ただ、ここには舞台伝承に関して、郡部でよく語られる或る僻性が見られます。

それはまず、由緒がはっきりしない舞台やお船は、自分のところで製作したと考えずに「他所から中古品を買ってきた」と伝承すること。そしてその買い入れ先がしばしば「深志神社から」となることです。(舞台保存会だより85

由緒が定かでないのならば、「これは我々の先祖が金を出し合って一生懸命造った舞台(お船)だ。」と主張するのが本来と思うのですが、なかなかそうはなりません。何故なのか?

そうした人たちと話していると、「我々の村にこんな立派なものを造れるような力(カネ)があったわけがない。」という、卑下というか、自分たちの実力を認めない心理があるように感じます。どうしてそう思うのでしょうか?謙遜と言えば奥床しいが、それよりも自分たちの先祖たちに対する過小評価、認識不足があるのだろうと思います。

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(中村地区のお船の彫刻 なかなか良い彫刻だと思います)

われわれの祖先は、たとえ百姓をして郡部にいても実に誇り高く、敬神の念は現在では想像できないほど強く、教養もありました。立派な祭礼をするためであれば衣食を節してでも、日掛け月掛けをして金を貯め、素晴らしい山車を造ったのです。

そうしたことはもっと想うべきだと思う。現代人を基準にものを考えてはなりません。

ところが村に立派な山車があると、これは他所から買ってきたもの、元は深志神社の舞台となります。確かに深志神社から古い舞台が郡部に売却されたケースはいくつもありますが、それがすべてではない。大半はその村で、その村の鎮守様の祭りのために造られたものです。

ただ、舞台行事はこの地方では深志神社が発祥です。舞台という呼び名とその曳行は深志神社から広まっていきました。村の舞台の由緒を問われた時、深志神社舞台と称することは箔付けとなり、より正当でグレードの高いものとアピールされたのではないでしょうか。

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(熊倉春日神社のお船の幕に描かれた「もみじに鹿」の絵)

(舳や艫の幕が絵になっていること自体稀です)

そこで春日神社のお船はどうなのか。結論から言えば、このお船は決して他所から買ったものではなく、一から春日神社のために造られたものです。

何故そう断言できるのか。それはこのお船の装飾を見れば判ります。お船の舳と艫となる幕に紅葉と鹿が描かれている。胴部の彫刻にもシカが彫られています。幕は後付けできるから措くとしても、当初から有ったと考えられる彫刻にシカが彫られていることは、このお船が春日社に奉納されたものであることを示す何よりの証拠です。

奈良の春日大社の鹿と言えば理解されましょうが、鹿は春日の神の使いであり、藤原氏のトーテムといえる動物です。通常シカが社寺や山車彫刻に描かれることは殆どありませんが、それを敢えて鹿を登場させたのは、このお船が春日神社のために造られたからです。

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(桑名 西舩場町の祭車)(祭車三角部分の彫刻「鹿」)

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以前、桑名の石取祭りを見に行った時、西舩場町の祭車に鹿の彫刻があり不思議に思ったことがあります。考えてみると祭車行事の奉納される桑名宗社は春日神社と桑名神社の合併社であり、それ故のシカ彫刻なのでした。

因みにこの祭車彫刻は立川富重・富種兄弟による傑作です。(舞台保存会だより43

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(熊倉お船の彫刻「鹿」)

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それにしてもこの鹿、凄いですね。はじめ見たとき山犬かと思いました。よく見るとオスの頭に角が見えます。鹿はおちょぼ口のはずですが、この鹿は耳まで届きそうな大口で吠えるように描かれている。首も短い。本物の鹿を見たことがないわけではないのでしょうが、この作者にとってシカとかシシというものは、こういうイメージの生き物なのでしょう。

秋、繁殖期を迎え雌雄が鳴き交わしている場面だと思います。

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(熊倉春日神社)

この春、思い黙し難く、久方ぶりに春日神社の祭礼を訪ねました。大型の動物彫刻や特殊な仙人彫刻に再会したかったのと、前回よく見ることができなかった一階手摺り部分の彫刻をもう少ししっかり見たかったので。

ところがその日、訪れると神社の前にはお船はありませんでした。日を違えたかと疑いましたが、祭典の準備はされています。本殿裏の舞台庫に行ってみますと、2台のお船が装飾もされず納められていました。

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(舞台庫の中のお船 お船だけれど保管庫は舞台庫と呼んでいるらしい)

前に総代さんが話していた通り、お船の曳き出しと飾り付は取り止めになったようです。曳き回さないのなら手間をかけて舳や艫を飾ることは無駄だということになったのでしょう。

それでも舞台庫の中は比較的明るく、せめて参拝者が見られるようにと表の扉が開けられています。中に入り間近から彫刻を拝見しました。

一階手摺り部分には左右で四面の彫刻場面が彫られています。間違いなく二階勾欄下彫刻と同じ作者による彫刻ですが、なんとも素朴でしかも含蓄のある絵姿です。

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(熊倉お船 一階手摺りの彫刻「獅子舞風景」)

右側の場面。祭礼の風景のようです。獅子舞の様子が描かれています。獅子の舞手を中心に、太皷・笛・三味線を弾くお囃子たち。春祭りの門付けでしょうか。獅子の向いで太鼓を負う人は立派な髷を載せていますから、寧ろ獅子舞を受ける側の主人かも知れません。

その隣の場面では宗匠さんのような人が、三人の僧侶に巻物を授けようとしている。宗匠さんのような人は和尚さんなのか?三人の僧は小僧さんなのか?よく分からないのですが何か由緒のある場面のようにも思われます。

なんにしても人物たちの表情がいい。春風駘蕩というか、穏やかでゆったりとした時間の流れを感じます。

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(熊倉お船手摺り彫刻「僧侶たち」)

どちらの彫刻にも場面の中に桜の樹があります。太く堂々とした樹。まるで幼児絵のような恐ろしくシンプルな描きようですが、力強く存在感が素晴らしい。この樹は永続的な時間を表しているのでしょう。

桜の咲く春、毎年変わらぬ祭礼と僧たちの営み。その穏やかな時の中にこそこの世の真理は在るのだと、そんな言葉が聞こえてきそうです。

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(手摺り彫刻に描かれた「桜の樹」)

反対面・左側の彫刻はより解りにくいのですが、流れている時間と思想は同じようです。

花の咲いた桜のもとで、それぞれ二人の人物が会話をしている。一組は被り物の形から儒者と町人でしょうか。儒者のような人物が町人風の人物に何か話しかけている。

もう一組はこれも被り物が烏帽子のように見えますので神官かと思われる。対の人物は頭部が欠けていてなに人か判りません。それぞれ何か哲学的な問答をしているように見えるのですが、何を話しているのか?…まったく分からない。

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(左側面手摺り彫刻)

桜の樹には鳩らしき鳥が止まっている。鳩は時間を、桜の樹は永遠に近い時の流れを映しているのでしょう。鳩の命は短いが、その子孫は毎年巣を掛け桜の樹に止まり続ける。千年経ってもその様子は変わることはない。その下で交わされる人間たちの対話は、やはり永遠がテーマなのでしょうか。

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(鳥が止まる桜の樹)

またこの彫刻からは、成熟した神仏習合の世界が感じられます。

神仏習合は8世紀頃始まり、修験道や山岳信仰も巻き込んで成長し、千年以上続きました。日本宗教の最も独創的な達成だったと思われますが、明治政府により破壊されました。

しかしこの彫刻の中では神仏のみならず儒教や道教も混然一体となり、あらゆる宗教・思想が混交融和しています。世界の真理は自然(あるがまま)であり、神も仏も儒も道も表現の違いに過ぎない。そう謳っているかのようです。

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(手摺り彫刻に描かれた人物たち 僧侶、儒者、神官)

このお船と彫刻が製作されたのは、おそらく江戸時代、その後期かと思われますが、こういう深い思想性に富んだのある場面が描かれたのは驚きです。江戸時代だからでしょう。

江戸・徳川時代は約260年間平和が続き、三百年の太平と称えられます。日本で内外に戦さのない期間がこれほど長く続いたことはなく、これは偶々続いたということではないと思う。家康や彼に続く為政者の意図により作為された平和だと考えられます。

徳川は武家ですから軍事政権で、軍事政権が三百年近い平和を保ったというのは稀有のこと。そうした例は世界史の中にもないのではないか。刀に懸けても戦さは許さない、という強烈な意志が貫いた太平でしょう。

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(手摺り彫刻に描かれた人物たち 獅子舞、三味線曳き)

舞台彫刻とは直接関係がないと思いますが、この平和を外しては熊倉のお船に描かれた彫刻は理解できない。三百年太平の世が熟成させた思想が、信州の片田舎のお船彫刻の中にも実を結んでいるのだと思います。

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(二階勾欄下彫刻「蝦蟇仙人」) ( 同 「鉄拐仙人」)

しかし、人間の営みに永遠のものはない。明治維新で太平の世も終わりを迎えます。近代国家を目指す明治政府は安逸な平和を否定し、戦争立国へと180度舵を切りました。19世紀にあって近代化とは戦争をすることで、対外戦争なしに国家の成長などなかった。戦争により産業と消費を活性化させ、更に領土も拡張して強壮な国家を作る。成功した国は先進的近代国家となり、負けた国は領土も主権も奪われ凋落してゆく。仁義なき戦いです。

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(一階窓部の大盤彫刻「獅子」)

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日本はこの競争に参戦し、次々と戦争を重ね、それはある程度成功したといってよいのでしょう。列強国家となりました。しかし博打のような成功はいつまでも続かない。戦争の時代もやがて終焉を迎えます。日中戦争と夜郎自大な太平洋戦争の敗戦。維新以来およそ80年で戦争立国の時代は終わり、国は壊滅しました。辛うじて元の国土は保ちましたが、悲惨な終わり方でした。

国全体が道義というものを失ったことが根本原因だと思います。

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(二階屋根下の彫刻「竜」)

その後はまた平和の時代となり、戦後70年を経てこれは現代も続いています。

但しこの平和は、アメリカの軍事支配下に入り、その冊封国家となることによって得られたものであり、主権なき平和と言える。江戸時代の平和とは全く質の違ったものです。

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(春日神社付近の熊倉の集落 背景に北アルプスの山並みが連なる)

昭和のいつ頃だったか「昭和元禄」という言葉が聞かれました。確かに昭和後期の平和と経済の発展は江戸の最盛期に比するものがありました。しかし、文化はどうだったか?

元禄期には最も力強い日本文化が成立し、松本の町では初めて舞台が生まれました。舞台文化は広がり、やがていくつもの名舞台や、熊倉のお船のような優れた作品をも生んでいった。

対する昭和から平成にかけては、それに匹敵するような文化が生まれていただろうか?

その評価は、いずれ後世がすることになるのだろうと思います。

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(熊倉の渡し船 神社の裏に舞台庫と並んで保管されている)

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(熊倉の渡し場付近 犀川)

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