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舞台保存会だより125 本町1丁目舞台の建造

2019年3月13日

本町1丁目舞台の建造

本町1丁目舞台は深志舞台中、規模において最大の舞台。最もグレートな深志舞台です。

舞台の幅、長さ、高さを総じてこれを上回る舞台はなく、重量は恐らく博労町舞台に譲りますが、それに次ぐ重さを有しているはずです。

また、彫刻や錺金具・塗りも極めて豪華で、他の追随を許しません。これぞ本町1丁目という舞台です。

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(天神まつりで境内に並ぶ舞台 一番手前が本町1丁目舞台)

竣功は昭和14年。これは現在ある深志舞台の中で最も新しい舞台ということになります。

昭和10年前後、深志舞台町会ではどういうわけかいくつかの町会が舞台を新築し、ちょっとした舞台ブームが訪れました。昭和9年からこの13年にかけて、本町2丁目、中町1丁目、本町3丁目が新たな舞台を建造しています。本町1丁目舞台はその中でも最後の製作となり、事実上これが最後の深志舞台建設となったわけですが、このことが本町1丁目舞台にやや特殊な光彩を添えることになったかと思われます。

本町1丁目舞台の建設経緯については『舞台建設』と題された手書きの記録冊子が伝わっています。当時町の役員であった水琴堂書店の主人・小松為吉氏が書き残したもので、罫紙に丁寧な毛筆で書かれています。私の手許にあるのは青焼きコピーですから、一定数が複写され配られたのでしょう。

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(記録冊子『舞台建設』 特に表紙もなく町会内部だけの閲覧を目途としたものでしょう)

この『舞台建設』記によると、前代の本町1丁目舞台は明治21年の火災、所謂極楽寺大火で焼失しました。以来、

『五十幾星霜幾度か建設の議起こりたるも巨額の資を要する事業なるが故に 所謂言ふは易く行ふは難き譬の如く 其の実行を見るに至らざりき』

という次第だったそうです。

ところが近年、本町2丁目・3丁目で舞台の建設が始まった。そこで、

『本町一丁目としても座視するに忍ぶ能わず 遂に昭和十二年一月十三日新年総会に於て舞台建設の議を定め… 建設に着手せり』

本町1丁目舞台の建設は、やはり2丁目、3丁目の新築に触発されて起こったと知れます。

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(本町2丁目舞台 昭和9年竣工) (本町3丁目舞台 昭和13年竣工)

半世紀以上実現しなかった舞台建設も定まると早く、二月に大工・小櫻武市に設計と工人選定を委嘱、四月には小櫻の斡旋によって、彫刻・大島五雲(井波)、錺金具・山内平吉(高岡)、塗り・小川英(小池町)と主な匠が決まりました。大工棟梁は小櫻武市(浅間)ですが、彼は『一丁目出入大工職』と記されていますので、普段なにかと本町1丁目の用を頼まれる御用大工だったようです。

かつて本町や中町など市内の有力な町は、町ごとに決まった出入りの職人や組があって、町の用を足していました。例えばあめ市の時に町内に設える拝殿の設営や撤去は、それぞれの町指定の鳶がやっていたといいます。天神まつりの神輿舁きなども、町の若者と鳶が担ぎました。本町や中町の店主は旦那様で力仕事などしなかった。大工の小櫻も本町1丁目でちょっとした建築工事があると頼まれる、そういう関係の大工だったのでしょう。

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(本町1丁目舞台の図面 立面図・側面図 信州大学土本研究室)

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小櫻が他にどのような建築仕事を請け負っていたのか、不覚にしてまだ調べていません。ただ自分の建設仕事だけでなく、彫刻や彫金に全国的名工を紹介できたのは、実力のある大工だったからでしょう。彼は浅間の大工ということですから、温泉街の旅館建築なども手掛けていた可能性があります。そうした建築では豪華な欄間や特殊な彫金金具などの引き合いもあり、井波や高岡とつながりがあったのではないでしょうか。

従来深志舞台は基本的にすべて地元の職人により建築されており、県外の職人の手が入ることは稀でした。しかし舞台建設が続いたこともあり、清新な匠事を求める向きからも、小櫻の斡旋で北陸の彫刻・彫金が導入されることになったかと思われます。

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(本町1丁目舞台の彫刻)

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(本町1丁目舞台の錺金具)

こうして請負も決まり、さあ建設工事に取り掛からんとする矢先、事件が起こります。日支事変の勃発です。昭和12年7月、盧溝橋の不慮の銃弾から始まった局地戦闘は北支全体に広がり、更に上海に飛び火して歯止めのないまま大規模な大陸戦となり、中国全土を巻き込んだ日中戦争となりました。国は戦時態勢で、これは舞台建設どころではありません。

『世を挙げて消費節約、物資統制の国策となり金資を集むるに困難し 又金銅等の物資を受くるに苦悩し 一時は中止の已む無きに至らんとする危機に達したるも…』

なんとか困難を克服し、区民、工人の努力奮励、また『氏神県社深志神社神明の懿徳』により、昭和14年7月25日、無事竣功を遂げることができました。

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(平成20年 修復直後の本町1丁目舞台)

『成工の實蹟は実に華麗花の如く優美月の如く 松本第一の舞台たりとの好称を受くるを得たるは 本舞台は歴史的建造物なるを以て各工人の目前の利益に拘泥する事無く 千古不朽の光栄に憧憬して技を練り妙を極めたるものと云はざる能はざるなり』

水琴堂主人・小松為吉氏の教養気質によるところでしょうが、このような名文は現代には求め得ません。流暢でリズミックな漢語のほとばしりは爽快を感じさせます。見えを切るような大仰な表現にはちょっと笑いも零れますが、歌舞伎でも観ている心算で読めば楽しい。昔はこんな文章をさらさらと編み出せる人が教養人だったのでしょう。

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(本町1丁目舞台の各部)

こうして無事完成した舞台ですが、戦時下の建造ということもあって相当な困難に直面していたようです。『舞台建設』記の中の「建設経過」の記事で、昭和13年5月には、

『苟且(カリソメ)ト思考セシ日支事変戦局ハ此ニ於テ愈々拡大シ 本国トシテモ物資ノ缼乏ヲ来タシ 消費節約不急工事延期等ノ声高ク舞台工事モ一時中止ノ議モ有リタルモ 半製ノ物ヲ其侭放置スレバ用材ニ狂ヲ生ジ 又契約ヲ徒ニ破毀スレバ違約ノ責ヲ生ジ其ノ損害量ル可カラズ 万難ヲ排シテ工事ノ進行ヲ図ル可シト遂ニ意ヲ決シ 建設ヲ継続スル事ニ定メタリ』

13年5月というと日中戦争は徐州作戦が展開されていた頃で、日本軍は泥沼に踏み込んで戦争収束の見通しも利かなくなっていました。舞台建設も悲壮感あふれる決意です。

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(『建設経過』仮名はカタカナで、時系列に経過が記されている)

また、これも戦争の影響でしょうか、工事が佳境に入るべき昭和14年の春頃、棟梁の小櫻武市が満州国へ出向、帰ってきません。大工仕事の大方は終わっていたので、工程に支障はなかったようでしたが、協議の上、補助の大工である中西芳夫他二名に組立て工事を任せ、彫刻・彫金工事督励のため町会役員が富山に出向するなど、涙ぐましい努力が続きます。

この間に町内寄付額の確定、集金方法の検討など、三カ年の内に建設委員会開催が74回。工事関係者との打ち合わせは総計22回。彫刻の大島氏来松10回、錺金具・山内氏来松5回という仕儀で、平和な時代であっても大変な大事業ですが、戦時下にあっては町会職人とも非常な苦労であったろうと推察されます。

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(『舞台建設』に記載される本町1丁目の世話人) (施工者・職人たちの名前)

昭和14年の6月にはすべての部材が完成し、舞台庫の中で本組立が始まります。

『炎暑ヲ冒シ連日工人奮励シ全ク成工シタルハ 實ニ七月二十五日午前七時ノ事ナリキ』

最後の最後の仕上げでしょうが、竣工式の朝まで工事して完成したようです。

斯くして昭和14年『七月二十五日天気晴朗午前九時 氏神縣社深志神社神前ニ於テ成工奉告祭執行 神職四名奉仕… 謹ンデ舞台成工ノ事神明ニ奉告シ 夫レ夫レ代表ニテ玉串ヲ奉奠シ 終リテ神酒供物ヲ戴キ無滞祭事終了シタリ』

7月25日は深志神社の例祭日。祭典準備に忙殺される日時間に舞台の竣工奉告祭とは、神主さんには定めし迷惑だったろうと同情しますが、まさにこの日を期して舞台の成工を告げたい一丁目の人々の気持ちも十分理解されるところで、思いのほどが偲ばれます。

深志神社集合

(昭和14年 恵比寿殿前での記念写真)

続いて『参列者一同恵比寿神社社頭ニ於テ 記念写真ヲ撮影ス』

とありますのは、上の写真でしょう。現在も深志神社正面参道脇に在る本町一丁目恵比寿神社のことですが、この写真では恵比寿殿前に鳥居も建っていたことが判ります。今は無く、おそらくその後の戦争で供出されてしまったものと思われます。

このあと深志神社桟敷殿で竣工式を行い、工人功労者に感謝状を贈呈。その後時局に鑑みて簡素な直会を頒ち、町内初曳きを行いました。当時の区長・上條佐平治氏をはじめ、町会役員各位には万感胸に迫るものがあったことでしょう。

因みに建設工費は伝わっていませんが、寄付額は記録があります。町内36名で6,890円、外部有志より8名275円、総計7,165円。現在なら7,165万円といったところでしょうか。

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(平成20年 本町1丁目舞台入魂清祓い式)

本町1丁目舞台は平成20年春に改修工事を行いました。およそ70年を経ての修復です。

外観上の傷みはほとんどなく、「なんでやるの?」と思った舞台でした。しかしやはり修復をすると見事で、漆も錺金具も光を取り戻し、新造のように輝く舞台となりました。

ただ、脚回りは修理が必要だったようです。重い舞台ではあり、辻での方向転換では後輪を引きずって車輪車軸を傷めていました。

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(平成20年 舞台修復の記念写真)

本町1丁目は中町通りや伊勢町部分にも町がありますので、そこに入り込んでのUターンがあり、旋回が多くて大変です。古老の役員さんたちは気にしていますが、体力のある若手が少ないので、どうしても無理な曳行をせざるを得ません。

また、ドーナツ化現象で本町に居住する人が極端に減り、テナントが増えてオーナー町民や店員も少なくなったため、重い舞台の曳行はひたすら負担と感じられるようです。こどももほとんどいません。

しかしこれほどに先人が苦労して造った舞台、どうか建設者たちの思いを忘れず、いつまでも松本の町を曳き回してほしいと願うばかりです。

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(天神まつり曳行風景 舞台を境内に曳き込むところ)

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