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舞台保存会だより129 山口権之正の天井画

2019年9月28日

山口権之正の天井画

「山口権之正の天井画というのがあるそうです。見に行きませんか。」

飛騨高山の長瀬公昭さんからそんな誘いを受けたのは、平成28年2月初めのこと。ちょうど節分祭が終わった直後でした。

神社の行事は暮から正月にかけて非常に忙しく、休む間もありません。深志神社は節分祭も盛大に執行しますので、節分が済むまでは全く息が抜けません。雪だるまのように疲れが溜まっていましたが、山口権之正と聞いては否も応もありません。日を合わせて天井画のあるという寺を訪ねることにしました。

その日、2月10日は前日からの雪で世間は真っ白。些か動きにくい日でしたが、例によって長瀬さんと笠原棟梁と車で乗り合わせ、寺に向かいました。

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(長瀬さんと笠原棟梁 北熊井諏訪神社にて)

天井画があるという寺は二寺あるといいます。一つは松本市神林の長久寺、もう一寺は木曽奈良井の長泉寺という寺だといいます。当然ながらどちらも初めて訪ねる寺でした。

それにしてもどうして山口権之正の天井画の存在が知れたかといいますと、

木曽の長泉寺のお大黒さま(奥様)は、同寺の本堂に描かれた天井画に「山口権之正筆」と署名があるのを見ていて、かねてからこの画家はどういう人物であろうかと、気に掛けていました。するとたまたま同じ宗門で交流のある松本の長久寺にも山口の天井絵があることを知ります。愈々興味を深めインターネットで検索したところ、この「舞台保存会だより」の記事に逢着しました。(舞台保存会だより18舞台保存会だより71

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(長泉寺の天井画の署名)

そこで初めて山口が明治期の飛騨の匠であることを知り、高山の教育委員会に問い合わせたところ、その筋に詳しい人物として長瀬さんを紹介されたのだそうです。

なんだか人と情報が飛騨と信州の間をぐるぐると回っているようですが、その解決の糸口をこのブログが引き出したのであれば嬉しいかぎりです。

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(長久寺) (長久寺山門)

最初に神林の長久寺を訪ねました。長久寺は神林下神集落のはずれに近い静かな田園の中にありました。山号は「高譽山」、曹洞宗の禅寺です。

寺務所を訪ねるとお大黒さまが承知していて、さっそく案内してくださいました。

まず本堂に案内されました。本堂には当然ながら立派な祭壇やテラ・シャンデリアがあります。ただ、天井画はここにはありません。通されたのはその本堂の更に奥にある「開山堂」という奥間でした。開山堂は寺の代々の祖師の位牌を安置した霊廟で、極めて神聖な空間です。祖師を祀る堂ですから檀家の人もほとんど入ることがないとか。天井画はその開山堂天井の格天井に描かれていました。

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(長久寺本堂内)         (本堂より開山堂へ)

およそ80枚ほどもありましょうか。画題は植物、草花の絵が多く、稀に風景や動物、おかめの面なども描かれています。そしていちばん隅の一枚に

「飛騨匠 山口権之正画」と、やや左に流れる例の筆致で署名がされていました。

『山口権之正、こんなところにも君の仕事だね。』

天井を振り仰ぎながら、挨拶するように心の中で呟きました。

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(開山堂の天井画) (山口権之正の署名)

天井画などはあまり見つけないので、上手いものなのかどうかよく解りません。しかし、これを描いた山口権之正はずいぶん楽しんで画いているらしいことは伝わってきます。

山口はもちろん大工で、彫刻も巧みな棟梁でしたが、絵心があり、描くことが大好きな匠だったようです。この天井画も、おそらくは開山堂の仕事で入った山口が格天井ならばと、自ら進んで描くことを望んだのではないでしょうか。

絵師というものは別にいますから本来なら彼らの仕事で、棟梁自らが筆を執って、というのは異例なことです。よほど画きたかったのでしょう。

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(開山堂の天井画)

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(開山堂梁の墨書)

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(開山堂内にあった彫刻 山口権之正の作ではないかと思われます)

開山堂には本殿から伝って堂内に入りましたが、外から見ると本殿とは別の建物であることが判ります。後から建築して本殿とつなげたのでしょう。

殿内には太い梁が渡り、そこに書かれた墨書は「明治二十七年」と読めます。山口権之正の壮年時代です。おそらく開山堂自体を山口権之正が建築し、更に天井画も自ら描いたのでしょう。天井画は匠というより、造形作家としての自らを誇示しているように思われました。

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(長久寺開山堂 裏から見たところ) (横から見た開山堂 左側が本堂)

(開山堂は近年大規模な改修をされたようです)

続いて訪ねた奈良井の長泉寺は、奈良井宿のちょうど中ほど、宿場町の寺らしく表通りから引っ込んだ屋並みの奥に鎮まっていました。裏はすぐに木曽の山で、雪が山肌に鹿の子模様を描いて墨絵のように美しい。その山を背負った本堂や庫裡は大きくたいへん立派で、由緒の古い、町の人々から大切にされている寺であることが一目で解りました。

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(木曽奈良井 長泉寺)

庫裡から声をかけて訪ねると、お大黒さまが待っていてさっそく案内してくださいました。

山口権之正の天井画は本堂正面のあがり框上の天井に描かれていました。間口九間、奥行き二間(16.2m×3.6m)という長大な天井。その天井いっぱいに描かれているのは、実物も斯くやと思われるほどの巨大な竜で、巻霊雲を伴って中空に蟠踞する姿です。

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(長泉寺本堂入り口の空間)

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(長泉寺の天井画)

「これはまた、...なんとも凄い。」

まさに言葉を失う、圧倒的な天井画でした。

九間という長い天井の下を、あちらに行きこちらに来して眺めましたが、ただ呆れるより仕方がありません。どうやって描いたのか。システィナ礼拝堂のミケランジェロのように天井に直に画いたのか?...いや、そうではなく、たぶん天井材を床に拡げて描き、画き上げたものを天井に上げたのでしょうが、それにしても大変なことです。

しかもこの竜はかつて「鳴き竜」であったといいます。鳴き竜は竜の絵が描かれた天井の下で手を打つと、竜の声が鳴くように響く現象で、日光東照宮薬師堂の鳴き竜が有名です。

天井板の張り方で、中央部をやや高く持ち上げて葺くと床との間で特別な反響空間を生じ、拍手や拍子木の音が、恰も竜の鳴き声のように響く。所謂フラッターエコー現象です。

現在はもう鳴きませんが、長泉寺の東堂が若いころ、と言えば50年ほど前までは、この竜の声が聞こえたそうです。鳴き竜はもちろん絵によってではなく、天井を葺く大工職人の技術によって鳴くわけですから、山口権之正の匠技の精華・結晶と言えるでしょう。

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(長泉寺の天井画)

お大黒さまから話を伺うと、長泉寺は貞治5年(1366)の創建、南北朝時代に遡る古刹です。江戸時代はお茶壷の宿であったといいますから、格式の高い寺でした。しかし天保年間に奈良井の大火(天保8年・1837)により類焼し、現在の建物はそれ以降に建てられたものだそうです。

お大黒さまはその時の棟梁が山口権之正ではないか、と考えていたようですが、山口は明治期の匠ですので少なくとも本堂自体の建築とは関係ないはずです。ではなぜ山口権之正の天井画がここにあるのか?

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(長泉寺本堂内部)             (お茶壷)

推測ですが、明治のある時期、寺の屋根葺き替えとか改修工事が必要になり、その工事を山口が請け負い、併せて天井画も描いたのではないでしょうか。

社寺建築は長寿命で一度建てたら百年以上、数百年の堂宇も珍しくありません。但し一番傷みやすいのは屋根で、しばしば葺き替えが行われます。茅葺きで2,30年、檜皮葺でも5,60年と言います。そうした際に一部天井の張替えなどもなされたのではないでしょうか。

竜の天井画は寺の希望だったのかどうかわかりませんが、山口は嬉々としてこの仕事の打ち込んだことでしょう。天井は二間×九間、画くだけでも大仕事です。しかも鳴き竜となれば建築家・匠としての実力も試されます。単なる改修工事ではなく、飛騨の匠・山口権之正の名が伝説となる仕事です。匠として、さらに芸術家として最高の技を示す場として取り組んだのが、この長泉寺天井画ではないかと思います。

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(天井画の竜)

木曽谷の日の入りは早く、寺を辞する頃には外はすでに黄昏ていました。墨絵のような木曽谷の景色は美しく、山口の活躍した明治時代や中山道で賑わった江戸の頃と、ほとんど変わらないのではないかと感じられます。

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(長泉寺風景)

松本・安曇ばかりでなく、木曽の谷にも足跡を残していた飛騨の匠。一匠としてだけでなく造形作家として強い意識を持っていた山口権之正。その作品がこの静かな奈良井宿ととともに長く保たれることを念じつつ、帰途につきました。

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