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舞台保存会だより34 『二十四孝』について2010年11月28日

『二十四孝』について

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現在改修工事中の湯の原町お船は、幕末の安政年間、立川和四郎富重と専四郎富種により建造されたものですが、見どころは何と言ってもその分厚い彫刻群、中でも船の一階両側に施された四面の大判彫刻『二十四孝図』でありましょう。二十四孝図は人物彫刻を得意とした立川流の殊芸とされる題材で、立川流建築による社寺の欄間部分や山車の要所を飾ってきました。湯の原町お船の図像を解説しながら、その意味について少し考えてみたいと思います。

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(湯の原町お船『二十四孝』大判彫刻「唐夫人」の図) (「立川富種」の刻銘)

ちなみに二十四孝とは読んで字の如く24の親孝行のこと。中国・元の時代、郭居敬(郭居業とも)が撰んだ24人の孝子のエピソード集です。ただ二十四孝子という思想はもっと古く、唐の時代にはほぼ同じ説話集が出来上がっていたとも。いずれにせよ孝という徳目を布教するため中国に古代から伝えられた教育説話ということができるでしょう。

日本でも江戸時代には寺子屋の教科書として広く読まれました。

 

【剡子】(ぜんし、又は、えんし・たんし)

中国古代・周の時代、剡子という若者が居りました。両親が眼病を患ったため心を痛め、その薬として鹿の乳がよいと聞き、鹿の皮を被って山に入りました。鹿に化け、その群れに紛れてその乳を採取しておりましたところ、猟師が本物の鹿と間違えて射ようとしました。剡子は慌てて皮を脱ぎ、事の次第を告げて自分を射ないよう懇願しました。猟師は驚くと共に、その孝の心に感じ入ったということです。

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(湯の原町お船の「剡子」)

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(同上 驚く猟師と懇願する剡子)

剡子のエピソードは人気があり、二十四孝図には必ずと言ってよいほど描かれます。鹿の皮をまとった剡子の姿と、その危機感がよいのでしょう。鹿の乳が眼病に効くというのも、いかがわしくて魅力的です。

飯田町1丁目舞台の剡子図は画面に猟師が登場しませんが、剡子が弓矢で狙われた瞬間でしょうか、モンタージュ効果の緊迫感が漂います。

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(飯田町1丁目舞台 一階手摺部の剡子 清水虎吉作)

 

【楊香】(ようこう)

晋の時代、(晋は三国時代の次の王朝です)楊香という少年がおりました。父親に従いて畑仕事に行く途中、突然山から虎が現れ襲ってきました。少年楊香は父を守るため身の危険も顧みず猛虎に立ち向かいました。するとその勢いに驚いた虎は身を翻して去り、親子は無事を得たといいます。おのれの身は虎に裂かれようとも父を守ろうとした楊香は、勇敢な孝子と称えられました。

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(湯の原町お船の「楊香」)

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(同上 虎と立ち向かう楊香の表情)

楊香もよく題材となります。虎に立ち向かう少年の勇気・気迫がたまりません。立川流では、虎は大抵このように上から身をくねらせて跳び下りてくるポーズで描かれます。

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(飯田町1丁目舞台の楊香 清水虎吉作)

 

【唐夫人】(とうのふじん)

唐の時代、崔南山という役人の妻に唐夫人と呼ばれる方がおりました。その姑は長孫夫人と呼ばれていましたが、老齢のため歯がなく固形の食を喫することができません。唐夫人は自分の乳を含ませて姑を養いました。長孫夫人はお蔭で長命を得ましたが、末期に臨んで唐夫人を讃え、そのおこないに倣うならば一族は繁栄するであろうと言い遺しました。やがて崔南山は高官に出世し、その家は長く栄え、これも唐夫人の孝養によるものと褒め伝えられました。

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(湯の原町お船の「唐夫人」)

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(同上 唐夫人と長孫夫人)

最初この図を見たときは、若い嫁の乳にすがりつくいやらしいヒヒ爺と見え、教育上いかがなものかと思いましたが、爺ではなく婆さんだそうで、いくらか印象が和らぎました。

富種は唐夫人の周りに大きな芭蕉や芍薬などの植物を配して、健康な女性の持つ母性と豊かな生命力を表現し、いろんな意味で印象的な場面に仕上げています。

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(中野市常楽寺の欄間彫刻 二十四孝図「唐夫人」 専四郎富種作)

 

【大舜】(だいしゅん)

伝説上の古代の皇帝・虞舜、舜のこと。

舜は心優しく徳の高い、誰からも好かれる青年でした。しかしその父は瞽叟という名で、眼が悪く心もねじけた人でした。母は早くに亡くなり義母がいて、舜はこの両親に孝養を尽くしましたが、瞽叟は舜に対して甚だ厳しく、辛く当りました。義母と義弟もやはり心悪く、しかも怠け者で仕事をしません。それでも舜は一人で働き、心をこめて父母に仕えて家を支えました。

そんな舜の徳を禽獣も知るのか、彼が暦山の畑で仕事をしていると象や鳥たちが集まってきて舜の仕事を手伝いました。その噂は時の皇帝・堯にも聞こえ、堯はその徳を帝王にふさわしいものと認め、帝位を舜に譲りました。これが中国史上最初の帝位の譲渡・禅譲で、舜はその孝徳により皇帝となりました。

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(湯の原町お船「大舜」)

象の圧倒的な量感と優しい目、その背や周りで囀る楽しそうな小鳥たちの姿、舜の顔には心なしか笑みも洩れているように見えます。堯・舜・禹と三人の聖人が治めた中国古代は理想社会とされ、後の時代の憧憬でもありましたが、その社会とはこの暦山に耕す舜のような世界でした。人は耕して食を得、鳥獣さえも心穏やかに野に暮らし森に唄う。大舜の図像は孝道を超えて、そんな理想社会をも映しています。

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(「大舜」の象や小鳥たちと舜)

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(中野市常楽寺の欄間彫刻 二十四孝図「大舜」 専四郎富種作)

 

  二十四孝図が立川流彫刻得意の題材であり、いくつもの完成された図像を残したことは最初に触れましたが、それにしてもなぜ二十四孝なのかと、かねがねそれが疑問でした。初代富棟は確認できませんが、二代富昌から近くは清水虎吉まで、すべてとは言いませんがほとんどの彫刻作者が二十四孝を彫っています。

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(半田亀崎町「中切組力神車」前山向拝部の「剡子」 立川常蔵昌敬作)

以前、舞台保存会副会長の大野貞夫さんに(この人は飯田町1丁目です)「なぜ二十四孝なのでしょう?」と聞いたところ

「そりゃあ、昔には孝行ということが尊ばれていたからさ。」

との返答で、それはそうでしょうがあまり答えになっていません。私の訊きたいことは彫刻の題材は無数で、例えば源平合戦や太平記、中国モノがよいのなら孔子や聖人伝、三国志でもよいわけです。そうした中でなぜ敢えて二十四孝なのか、ということで、設問自体が少々とりとめなくもありませんが、不思議と思うと気になります。つらつら惟うに概ね次の三点が主な動機かと考えられました。

一に道徳的・教育的動機、次に図像的な嗜好の動機、更に文学的な動機です。

これらについて一つ一つ検討をしてみますと。

まず道徳的・教育的動機のついては言うまでもありません。道徳の初等教育図絵として描かれたということです。孝という徳目は仁だ義だという儒教概念の中でも解り易く、すぐに実践可能な徳義ですから、教えの基本になります。二十四孝は寺子屋の教科書としても用いられていましたから、この動機はそのとおりでしょう。

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(安曇野市三郷「一日市場舞台」の二十四孝図「子路」と「曾参」 清水虎吉作)

しかし、中国において孝という徳義は単なる初歩道徳ではなく、儒教というより中国思想の根幹であり、その社会制度を維持する核心道徳でありました。

東洋史家桑原隲藏博士によれば、古代から近世まで中国社会の基底にあるものは家族制度で、これは氏族制度と言ったほうが解り易いかと思いますが、血脈でつながる一族の価値・その存続を最大とする制度です。こうした社会では個人はあくまで族の一部分、家族の価値観が優先します。また家族制度社会は祖先からのつながりで形成されますので、祖霊祭祀がその最も重要な祭儀になります。祭儀への参加には長幼の序があり、その祭祀権を持つ者、それが父であり、その権限は家族内において絶対的なものとなります。この家族制度の秩序を保つための道徳、それが孝弟です。

すなわち孝とは単なる個人道徳ではなく制度理念・国家理念であり、そのため孝は他の徳目を超越した絶対的な徳となりました。

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(飯田町1丁目舞台の二十四孝「漢文帝(上部)」 伝清水虎吉作)

これが孝道、二十四孝の中国に行われた理由ですが、日本では少し事情が異なります。西欧においてもそうですが、家族制度は多くの古代社会に見られるもののやがて崩壊し、個人を中心とした社会体制に変わっていきます。日本でも中世以降は核家族化が進み、二十四孝がよく読まれた江戸時代は、既に完全な核家族社会と言ってよいのでしょう。

こうした制度の違う社会では孝と言っても中国の孝道とはおよそカテゴリーが違います。あちらでは制度道徳として絶対ですが、日本では「親孝行、したい時には親はなし」といった体で、まあ落語のまくらのレベル。実際『二十四孝』という落語もありますが、ここでも大家さんの説く二十四孝の親孝行を、熊さんが混ぜっ返して実行してトンカラリ、というお決まりの落ちで、孝道に対する尊敬など微塵もありません。こんな社会で二十四孝などとのたまわってみても、せいぜい寺子屋の御伽草子の類だったのではないでしょうか。すなわち立川流作者たちが二十四孝の道徳的・教育的動機のみを理由にこの題材を選んだとは思えないのです。ではほかの動機についてはどうなのか。

二十四孝と立川流彫刻についてはもう少し考えてみたいので、回を改めて続けたいと思います。

 
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