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舞台保存会だより17 神武天皇像 修復完了す

神武天皇像 修復完了す
本当はまだ公開してはまずいのかもしれませんが、やはりご覧に入れましょう。中町2丁目の舞台人形・神武天皇像が完成しました。

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(衣装もすべて新調し、美しく甦った人形・神武天皇)

深志舞台は二階に人形を乗せるのがひとつの特徴ですが、よく数えてみると実際に人形を積載しているのは8台、総数の半分です。その中で中町は3町とも人形があり、それぞれが個性的です。
中町1丁目の人形は能の猩猩で江戸時代中期の作と伝えられ、舞台自体より価値があるとか。町の人が素直に喜べないような高い評価を受けています。

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(一昨年改修された中町1丁目舞台と その人形・猩猩)

中町3丁目の人形は一応平安貴族とされていますが、たぶん神主さんで、二階の台上を前に動いて祓いのしぐさをするからくり人形です。(現在は動かしていません)そして中町2丁目は神武天皇。武者人形が多い舞台人形としてはきわめて正統派で、しかも折り紙つきの名品です。

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(再来年に改修が予定されている中町3丁目舞台)

今回この人形の修復は埼玉県鴻巣市の人形工房で行われました。かつては太田鶴斎や、田中徳斎など地元にも優れた人形師がいて、修復も当然地元で出来たのですが、現在ではいなくなってしまいました。全国的にもこの手の人形を扱える人は少なく、京都とお雛様の生産地である鴻巣に数名いるだけなのだそうです。
時代の変化により地域社会がそのような技術者を抱えることができなくなった、ということなのでしょうが、かつて存在した高度な完成と技術を必要とするひとつの職業が無くなってしまったということは、残念だけでなく社会全体として考えないといけないことではないかと思います。われわれの社会は、実は貧困化しているのではないでしょうか。
それは兎も角、中町2丁目の神武天皇人形ですが、言わずと知れた太田鶴斎の作。人形の台座の裏には昨日書いたかのように墨色黒々と、その署名がされていました。明治45年とありますから舞台の竣工と同時で、少なくともこの台座は確かに舞台製作時のものということができます。

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(修復前の神武天皇) (人形の台座裏の署名)

太田鶴斎の人形はその緻密さにおいて驚くべきものがあります。初めてこの人形を間近で見たとき、手の甲に静脈が浮き出ているのを発見して驚きました。左手に弓を執り、右手を額に翳すその手の甲です。舞台人形など遥か下方から見上げるだけですから、そのような精密さなど必要ない筈ですが、誰が見なくとも妥協をせず、活けるが如く仕上げるのが鶴斎の矜持だったのでしょう。今回の修復でもこの静脈は再現されています。

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(修復後 血管だけでなく細部まで実にリアルに再現されています)

幕末、長崎を中心に生(いき)人形という人形制作が行われました。等身大のまさに活けるが如きマネキンで、西洋ならば蝋人形でしょうか。玉胡粉で仕上げるのでしょうが、肌艶などもまったく生体と見分けが付かず、見世物に出たり、輸出もされたとか。鶴斎の父太田長寿は態々長崎に出かけてその技術を研究した人形師であったといいますから、鶴斎の人形製作術はこの父直伝の高等技能と思われます。
太田鶴斎は舞台人形として神武天皇を何体か作っています。池田町下町(一丁目)舞台も鶴斎の神武天皇を積載していますし、他にもどこかにあったような気がします。近代を迎えた明治期には鎧姿の武者人形は野暮で、皇祖神武天皇がハイカラ。時代のトレンドでもあったのでしょう。各地の山車人形にも神武天皇は多いようです。

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(池田町1丁目の舞台 人が多くて人形は見えない)
(この舞台はもともと本町4丁目にあった深志舞台です)

さて、この白黒写真をご覧ください。これも鶴斎作の神武天皇像。舞台に積載された姿も確認できますから、おそらく中町2丁目舞台竣工時に飾られていた初代の神武天皇像です。この写真は故太田滋氏がお持ちだったもので、氏は人形の改修にあたってこのようなフィギュアにしてほしいと希望されていました。

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(明治45年竣工時と思われる 当初の神武天皇と中町2丁目舞台)

頭や姿勢・重心もまったく違うので、これは別の人形であろうということで希望は実現しませんでしたが、見るほどに見事な姿で、太田氏のこだわりもよく解ります。たったいま金鵄が尊の弓先に舞い降りた瞬間で、それはまさに日本史が始まる瞬間でもあります。
なぜこの人形が現在のものに、いつ替わったのか、それは分りません。ただ私はこの写真を見る度に、この人形は今どこにあるのだろうか、どうなったのだろうかと想います。
因みにこの当時、あちこちで作られた神武天皇像のモデルは明治天皇であったようです。畏れ多いので敢えて掲載しませんが、軍服を着てサ?ベルを握ったあの有名な御真影は、大きな事件でした。確か憲法の発布と共に公開された姿だったと思いますが、一般の国民にとってはよく意味のわからない憲法よりこの御真影のほうがはるかにインパクトが大きかった筈です。描画とはいえ日本国民は有史以来初めて国の至尊・ミカドの姿を目にしたのですから。
御真影は明治20年頃イタリア人の画家エドアルド・キヨッソーネに描かせたものです。そのためか、かなり西洋人風に描かれていますが、この絵は日本人の感性に甚大な影響を与えました。というのもその御姿・顔つきは伝統的な日本の美男感覚からはまったく外れているのです。それは所謂濃い系の顔で、少なくとも公卿的ではありません。寧ろ逆で昔なら貧相とされた顔つきでしょう。
しかしこの姿は近代人の理念、英明・カリスマ性・凛々しさ、といった新しい価値観をよく伝えたのではないかと思います。明治天皇の御真影は理想の王のモデルとなり、新しい美のひとつの基準を創り出しました。

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(修復後の神武天皇像 いかがでしょうか イケメンでしょうか)

その後の日本人の美的感覚、カッコよさ、イイ男、イケメンのルーツはこの明治天皇像にあると思います。それは映画俳優や漫画・劇画の主人公の顔にも及び、既に疑うこともできなくなっていますが、この手の感性というものは実は作られたものだということ、時代の理念・価値観の変化により人の感じる美の感覚もまったく変わるのだということを教えてくれます。
修復され化粧直しされた中町2丁目の神武天皇は、花岡人形店さんによると少し若返った感じで、前以上にイケメンです。理屈は兎も角、この像が再び舞台の二階に乗り、国見といった姿で華々しく曳き回される様を早く見たいものです。

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(6月25日、ご神前にて舞台に積載される神武天皇像 隣はやまへい斉藤傳さん)

お知らせ、中町2丁目舞台は7月12日に深志神社ご神前にて入魂清祓式を行う予定です。その前に今月の29日、いよいよ本町2丁目舞台が魂抜き神事を行い、改修に入ります。
7月は天神まつり。忙しくなってきました。