舞台・神輿
豪華絢爛 松本深志舞台 18台
祭礼に繰り出す山車を、松本では舞台と呼びます。深志神社の例祭に曵かれる氏子町内の舞台は16台。平成13年、女鳥羽川北の2台の舞台とともに「松本市重要有形民俗文化財」に指定されました。
毎年7月24日・25日、天神祭には深志神社境内に16台の舞台が曳き込まれ、各町内自慢の舞台が綺羅を競う様は松本の夏を代表する風物詩です。
※以下の写真をクリックすると各舞台の詳しい説明ページをご覧いただけます
松本深志舞台
現在深志神社祭礼(天神まつり)に曳かれる舞台は16台。松本城下、女鳥羽川以南の南深志地区16町が保有しています。その16町は、本町1、2、3、4、5丁目、伊勢町1、2、3丁目、博労町、中町1、2、3丁目、飯田町1、2丁目、小池町、宮村町1丁目で、いずれも江戸時代初めより松本城下町の親町・枝町を構成する古い町です。
平成13年に北深志地区に残る2台(東町2丁目、六九町)とともに、「松本城下町の舞台」として松本市重要有形民俗文化財に指定されました。
松本深志舞台の特徴
- 四輪形式
前輪が台輪の外の付く大型の外輪式、後輪は小型の内輪式。古くは三輪。
輪の形態は御所車型。
≪例外 飯田町2丁目は前後輪の大小が逆。博労町は輪が寄木型≫ - 二層形式(二階建)
下層は幅一間、奥行二間の囃子台で、三方に張り出しの勾欄がつく。二階へ上る梯子と太鼓台を備える。
上層は幅一間・奥行き一間で下層から建つ4本の丸柱で屋根を支える。四周に勾欄を廻らせ、内部に人形を置く。
≪例外 本町4丁目、5丁目舞台は二階屋根を持たない櫓型≫
左:車輪と下層部分 右:本町2丁目舞台 鬼と下魚
- 屋根
起り型(ムクリガタ)
二階大屋根は切妻妻入りの起り型屋根。また上下層の間・支輪部に四方に葺下ろしの起り屋根(庇屋根)をつける。塗装は漆塗り。
≪例外 飯田町1丁目、2丁目、中町3丁目は二階大屋根が唐破風型≫
左:起り型屋根 伊勢町3丁目舞台 右:庇屋根と勾欄回り錺金具 本町1丁目
- 舞台人形
二層部に大型の人形を置く。
≪例外 現在人形を積載するのは9舞台、7舞台は人形がない≫
左:舞台人形 中町1丁目「猩々」 右:舞台人形 博労町「鐘馗」
- 塗装
漆塗り。下層は春慶塗、上層は黒のロイロ塗。
≪本町3丁目は極彩色≫ - 彫刻
台下、下高欄、持送り、支輪部、上層欄間、木鼻、輪覆いなどに素木彫の彫刻がつく。
≪例外 本町4丁目、5丁目、宮村町1丁目は彫刻なし≫
博労町舞台の持送り彫刻
本町2丁目舞台の勾欄下彫刻
- 錺金具
二階勾欄下に各種意匠の錺金具。二階勾欄部には正面刎勾欄、四隅擬宝珠、笹金具。下高欄各所、垂木包み金具など。
台輪には黒漆塗りの鉄金具。 - 舵棒
後部のみ。差し込み式で先端には龍頭の彫刻が施される。
前方には曳き綱。
≪本町1丁目は象頭彫刻≫
松本深志舞台の歴史
深志神社の古伝によれば、元和元年(1615)小笠原忠真公が大阪の陣の戦勝帰陣に際し、南深志十三ヶ町産子に命じ山車舞台を造らせ、社前に曳き入れて各々舞人をして奏楽せしめ、神輿二基、神官騎馬にて奉行警護し南深志を渡御された、と伝えられています。戦国の世が終わり、平和の時代の訪れとともに天神まつりと神輿・舞台行事が始まりました。
舞台の名称が文書に現れる最も古い記録は元禄五年(1692)とされます。当時の舞台はもちろん残っていませんが、どんな姿をしていたのでしょうか。その後、各町内の舞台は代を重ね、現在16台の舞台が綺羅を競っています。
舞台の数は、江戸時代末に13台と記録されています。その後明治期に町会の分割があり(伊勢町⇒伊勢町上丁・中丁・下丁⇒伊勢町1丁目・2丁目・3丁目など)、大正期には16台になっていたようです。
舞台の代替わりを本町2丁目に追ってみますと、
・寛政 5年(1793)舞台建造-天保8年(1837)南安曇郡大妻村へ同舞台売却
・天保 9年(1838)舞台建造-明治21年(1888)北安曇郡大町村大黒町に売却
・明治11年(1878)簡易型舞台建造-本町2舞台庫に現存
・昭和 9年(1934)舞台建造-現在の本町2丁目舞台
のようになり、現在の舞台は、少なくとも4代目であることが分かります。
左:下波田舞台(向かって左) 右:池田町1丁目舞台
平成の舞台修復事業
平成7年、舞台の老朽劣化と舞台行事の衰退を憂慮した舞台町会有志により松本深志舞台保存会が結成されました。その後、保存会員の働き掛けにより、平成11年に東日本鉄道文化財団より支援事業に認定され、平成13年には松本市より『重要有形民俗文化財』に指定されました。
平成11年、博労町舞台の全面修復を皮切りに、支援金、松本市の文化財補助金を活用して、舞台修復事業が始まりました。平成の舞台修復は文化財としての修復を徹底するため、学識者による舞台修理審査委員会による修理方針に基づき、地元伝統職人で組織する舞台修理プロジェクトチームにより施工を行いました。
平成26年にすべての舞台が修復を終えて平成の舞台修復事業は完了し、令和の時代に引き継がれています。