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舞台保存会だより36 立川富種の二十四孝図について

立川富種の二十四孝図について

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前々回に続き立川流の二十四孝について考えてみたいと思います。
現在改修中の湯の原町お船については、多くの古文書が残されており、それによりお船建造の詳細も窺えるのですが、中には立川和四郎(富重)自身の図面や請書・書簡などもあるそうです。その中でお船の彫刻について提案する部分もあり、安政3年8月の湯の原村世話人たちへの手紙では、同送の図面に触れながら「仙人の類を彫り申し候者、模様至極宜しく御座候…」などと書き送っています。例の4面の大判彫刻のことです。
手紙の主は棟梁の和四郎富重で、実際に彫刻を仕上げたのは弟の専四郎富種ですから、多少考えが違ったのかも知れませんが、当初は「仙人の類(たぐい)」を彫る予定だったようです。それがなぜ二十四孝へ変更されたのか、理由は解りませんが、おそらく富種の意向だったのでしょう。彼はこの大判彫刻の中に2カ所も「立川富種」の銘を刻んでおり、この作品に対する思い入れの強さを感じさせます。

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(立川専四郎富種 啄斎) (立川富種の刻銘)

富種の二十四孝図は、中野市の常楽寺本堂欄間にも8場面があり、これは同じ欄間中央の「粟穂に鶉」図と併せて富種の最優作とも評価される立派なものです。制作完成したのは万延2年(1861)ですが、請負は安政5年(1857)ですから、湯の原お船の直後に取り掛かったことになります。寺に二十四孝というのも聊か妙な話ですが、富種は彫りたかったのでしょう。彼はここで二十四孝図を完全に自分のものとしています。
想像ですが、富種は二十四孝という題材が特に好きだったのではないでしょうか。仙人図の予定を変えてまで彫り上げた湯の原お船の素晴らしさ、常楽寺欄間の完成度の高さ、また弟子の清水虎吉も好んで二十四孝を彫っていることからもそう感じられます。

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(中野市常楽寺 手前の仁王門は富種の建築)

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(やや寸詰まりのユーモラスな仁王様 これも富種作です)

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(常楽寺本堂欄間) (扁額と欄間中央の「粟穂に鶉」図)

富種が二十四孝図を好んだ理由というのは、これもまた想像ですが、絵のダイナミックさ、更に言うならそのドラマチックな画面構成にあるのではないかと思います。
立川流の特徴が彫刻のダイナミックさあるということは、夙に大河直躬先生も指摘されておられますが、社寺彫刻の主役である竜や唐獅子にしても、立川流のそれは格段に動的で、他の流派とは一線を画する趣があります。それが人物彫刻ではより顕著で、仙人や七福神などをテ?マとしても人物には動きがあり、単なるフィギュアであることはありません。更に二十四孝になると動きは一層激しく、走る、迫る、踊る、と殆んど映画か劇画の世界です。その動的な画面に更に「劇(ドラマ)」を重ねたのが、立川流の二十四孝図と言えます。
「剡子」の驚嘆と緊迫感、「楊香」の勇気と激しい気迫、「唐夫人」のエロティシズム、牧歌的な「大舜」。それらは単なる社寺彫刻や道徳の枠を超え、見る者の生体感覚に訴えてくるような迫力があります。またこの構図にはイマージュを強く使嗾する力があり、たとえ二十四孝の話を知らなくとも、想像力豊かな子供であれば、この図からいくつもの物語を紡ぎ出すことさえできるでしょう。

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(常楽寺欄間「楊香」)

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(常楽寺欄間「唐夫人」) (常楽寺欄間「大舜」)

こうしたダイナミックでしかもドラマチックな彫刻というものは意外に稀なもので、伝統彫刻の中にはあまりありません。何が元だろうかと考えてみると、やはり北斎あたりではないかと思います。間瀬恒祥先生も北斎漫画の立川流彫刻への影響を指摘していらっしゃいましたが、じっくりと考えてみたいテーマではあります。
さて、常楽寺欄間彫刻の残り4面を取り上げながら、立川富種の二十四孝図についてもう少し掘り下げてみたいと思います。
【孟宗】(もうそう)と「王祥」(おうしょう)
二十四孝の中には食べ物に関わる話が多く出てきますが、孟宗と王祥はその双璧でしょう。
孟宗は三国時代・呉の人。真冬に病気の老母に好きな筍を食べさせようと、竹林に分け入りますが、雪の積もる中に筍などあるべくもありません。竹林に涙して嘆くと、俄かに大地が開いて、多くの筍が生え出ました。孟宗は大いに喜び、筍を羹に調理して母に与えると、老母は病も癒え、齢を伸ばしたということです。

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(常楽寺欄間「孟宗」)

王祥(三国から晋の時代の人)もよく似た話です。
寒中、母(継母)が生魚を食べたいと望みますので、王祥は河へ行きますが、河面は氷に閉ざされており魚を獲るどころではありません。これでは母の望みを叶えられないと悲しみ、裸になって氷の上に伏すと、やがて体温で氷が少し融け、魚が二尾躍り出ました。王祥は喜んでこれを獲り、母に与えて孝養を尽くしたということです。

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(飯田町1丁目舞台の「王祥」清水虎吉作 とてもかわいい)

孟宗と王祥の話は素朴な孝行譚ですが、必ずしも評判は芳しくありません。時季でもない食物を殆んど生命の危険を冒してまで求め、これが本当に孝行と言えるのか、と疑問を覚えます。落語の「二十四孝」でも熊さんから「筍の次は鯉か、まったく唐土(もろこし)の婆アは食い意地が張ってやがる。」と、遠慮のない悪口に晒されています。
【郭巨】(かくきょ)
後漢の時代。郭巨には母と妻がいましたが、貧しくて精一杯の暮らしでした。やがて子が生まれ、その子が3歳を迎えるころになると生活はいよいよ苦しく、一家4人が食べてゆくことは難しくなりました。そこで郭巨は妻に言いました。「母と子をこのまま食べさせてゆくことは難しい。どちらか一人しか養ってはいけないだろう。子はまた生むことができるが、母は一度喪えば二度と得ることはできない。可哀そうだが、この子は殺して母を養おう。」妻は悲しみましたが、他に採る道はありません。二人は子を抱いて山に入り、土に埋めることにしました。
郭巨が子を埋める穴を掘っておりますと、鍬に当たるものがあります。掘り出すとそれは黄金の釜でした。釜には文字が刻まれており、「この釜を孝子郭巨に与える 他の者はこれを取ってはならない」と記されています。この黄金の釜のお蔭で郭巨は子を救い、母にも孝養を尽くして天寿を全うさせることができました。

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(常楽寺欄間「郭巨」)

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(釜を掘りあて天に感謝する郭巨と子を抱いた妻)

郭巨は二十四孝の中でも最も議論が多く、批判の厳しいエピソードです。
理由は言うまでもないこと。いくら孝、母を養うためとは言え、子を犠牲にするとはあまりに酷い、人情に背くというものです。福沢諭吉は郭巨について「…鬼とも謂うべし蛇とも謂うべし、天理人情を害するの極度とも謂うべし…」と口を極めて批判し、更に、儒教では子を産まず家を絶やすことを大不幸と言いながら、子を亡くすを以て孝行とするのはまったく非理である、と。情にも理にも全くそのとおりと言うほかありません。
また魯迅は、幼いころ読んだ絵本二十四孝の思い出の中で、郭巨の子供と自分とを重ね合わせ、当時凋落気味であった家の境涯から、祖母と幼い自分の生命が両立し難いと感じ、父があまり孝行に心を致さぬよう秘かに願ったと、その独特なユーモアで記しています。
二十四孝が封建道徳として、近代以降疎んじられ忘れ去られてゆくのは、こうした批判が大きいのだろうと思います。

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(飯田町1丁目舞台の「郭巨」清水虎吉作)

郭巨の話は奇跡譚ですので、現代人には花咲爺と同じただのお伽話になります。しかし忘れてならないのは郭巨の窮まった貧しさです。
貧しさというのは現実で、決してお伽話ではありません。親を殺すか、子を埋めるかという貧しさは、嘗ては日本にもありました。実際この彫刻が彫られた江戸時代には、貧しさ故「間引き」というようなことも密かに、しかし確かに行われていました。そのような人たちが釜を掘る郭巨の図を見た時、そこには全く別次元の感慨があった筈だと思います。現代人には想像できません。
貧しさと信仰と奇跡とは三位一体で、イエスが「心貧しき者」と呼んだ人々ならば、釜を掘りあげた郭巨の奇跡を信じることができるのでしょう。

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(「天運地福」昭和8年 太田南海作 これも郭巨を題材としたもの)

【董永】(とうえい)
これも貧しさの物語です。
いつの時代とは知らず、董永という者がおりました。家貧しく早くに母を失い、雇われの農作をして病気の父を養っていました。その父は足萎えで歩くことができません。董永は父親を車の付いた台車に乗せて田の畔に置き、畑仕事をしていました。
やがてその父も亡くなり、弔いをしたいと思いましたが、貧しい彼にはその金もありません。そこで董永は自分の身を売って父親の葬儀を出しました。
葬儀を済ませ、身を売った董永が金主のところへ向かうと、路上ひとりの美女がおります。彼女は董永の妻になると言い、ともに金主のところへ行って董永の身請けを乞いました。金主は固織絹三百疋を代価として求めます。董永とその妻はひと月かけて絹三百疋を織り上げ、かくして董永は自由の身となりました。
すると董永の妻は「自分は天上の織姫である。天帝が董永の孝心に感じ、その身を救うよう命じたのであなたの妻になったのである。あなたは自由の身となり目的は果たしましたから私は帰ります。」と言って天に帰って行った。

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(常楽寺欄間「董永」)

常楽寺で初めてこの図を見たとき、董永がどういう話であったか思い出せず、暫く黙って見続けましたが、意味は解けぬながらもその図像の素晴らしさに感嘆しました。雲に乗り去って行く天女、追う少年と董永。(この子供が何者なのか分らない)スピードと躍動感が素晴らしく、子供の呼び声さえ聞こえてきそうです。次に取り上げる「老萊子」と並んで常楽寺欄間の中でも白眉と言える作品でしょう。

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(去ってゆく天女の妻) (天女に祈る董永と子供)

董永の話は中国版の夕鶴といった趣で、天女も出てきますからこれまたお伽話ですが、何とももの悲しい話です。
弔いを出すために身を売る。身を売るということは、奴となる、自分の体も人生もすべて売却し、他人に引き渡すということで、現代人には理解の範疇を超えます。しかもそれが生きた誰かの為ではなく、唯一の肉親とは云え死者の為とは…。果してこれも孝と言えるのでしょうか。福沢諭吉であれば「痴とも謂わん、愚とも謂わん」とも評しましょうか。
しかし、そういう全く無垢の孝心いうものは、昔の人の心の中には在ったのだと思います。
欄間の図は、自由を得た董永が去ってゆく妻の天女に祈る姿ですが、父を亡くし妻にも去られて独り残された彼に、自由とは何なのでしょうか。董永の心中を想い忖ると哀れで、覚えず胸が熱くなります。
【老萊子】(ろうらいし)
老萊子は春秋時代の楚の人、思想家老子と同一人物とも云われます。
老萊子は70歳でしたが父母が健在で、その前では常に派手で童子のような衣装を身に付け、わざと転んで駄々を捏ねるなど幼な子供のような振る舞いをしました。その故は、両親に老萊子がまだ子供であると思わせ、自分たちが年老いたことを自覚させないためでした。親にとって子は何歳になっても子供で、面倒を見なければ、という思いが心を奮い、齢を伸ばす縁(よすが)となるのでしょう。

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(常楽寺欄間「老萊子」)

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(両親の前で舞い踊る老萊子) (わが子老萊子を見守る両親)

老萊子のエピソードは単純に心優しい話で、好ましいものです。欄間の図も大仰な姿で舞い踊る老萊子、優しい眼差しで見守る両親と、互いがよく解った俳優と観客のようです。
彫刀の冴えも素晴らしく、躍動と静謐の入り交じった画面は、富種一代の傑作と感じられます。