舞台保存会だより46 中町3丁目舞台彫刻について
中町3丁目舞台彫刻について
中町3丁目舞台は、これまで明治27年頃の制作とされてきましたが、今回の解体で2階屋根裏より朱墨書が顕われ、明治29年9月(1896)の竣工であることが確認されました。27年は、或いは着工の年であったのかも知れません。
また、この墨書には、7名の舞台世話人の名前が記されていました。当時の中町3丁目の有力者です。しかし残念なことに、舞台制作者の名前はありませんでした。この個性的の舞台について作者の発見を秘かに期待していたのですが、棟梁や彫刻の作者は、永く謎ということになりそうです。
さて、中町3丁目舞台の彫刻ですが、これもきわめてユニークで注目に値するものです。持送り彫刻などよく見ると実に精緻な彫りで、高い技術を持った職人の手になるものであることが判ります。特に小鳥が群れる一面は、鳥たちが生き生きとしていて、その囀りが聞こえるかのよう。眺めるだけで心楽しくなります。
また、両側の小屋根を支える持送りは、牡丹をモチーフにした立体的な透かし彫りです。舞台の彫刻としてはあまり見かけませんが、ここは職人がその技量を誇示しているところなのでしょう。
深志舞台も十数台もありますと、なかなか夫々の持送りまで気を配って見ませんが、こうした機会に見直し、あらためて感心します。
一方、1階手摺回りの通称『子供四季遊びの図』は、他では全く見ることのないオリジナルな図で、まさに中町3丁目舞台の個性を示す部分と言えます。
楽しい絵ですから、1面ずつ見ていきたいと思います。
まずは正面。子供たちが羽織を着て遊んでいますので、これは正月の情景でしょうか。
向って右手の子供たちはどうやら凧揚げに夢中になっているようです。竹トンボのようなもの、松飾りも見えます。
左手には大きな太鼓を叩いている子供達、幟旗や絵馬のようなものを担いで走る子供もいます。画面中央には太い柱が建ち、寺か神社か、広い土間のような場所のようです。思うに彼らはしてはいけない悪戯をしているのではないでしょうか。神社やお堂の太鼓を勝手に叩いたり、絵馬を外したりしていると、怖い神主さんか和尚さんが、顔を真っ赤にして飛んで来るかも知れません。
この正面図、彫りが浅いせいもあって些か見にくく、情景やシチュエーションも、今一つ捉え難いのは残念なところです。
次に右側面。ここには2枠の場面が描かれます。秋と冬の遊びのようです。
最初の枠では犬と一緒に手を広げて走る少年と、百足競争のように縦につながって遊ぶ子供たちです。歓声が聞こえます。「つながり鬼」というような鬼ごっこがあったでしょうか。
次の枠は雪遊びです。雪うさぎ、雪だるまを作る子供たち。手にした雪を口にする子もいます。
右奥では二人の子供と仔犬の姿。羽根付き帽子を被った男の子が悄然として、雪の中に何かを失くしたのでしょうか。お姉ちゃんらしい子と仔犬が励ますように寄り添います。事情はよく解りませんが、なにか雪の温かみを感じるような小景です。
一方、反対側の左側面には初夏から夏にかけての情景が描かれています。やはり2枠に区切られ、最初の枠では「花まつり」と思われる仏像に甘茶を掛ける少年たち。続いて端午の節句の風景でしょう。大刀を腰にしてイキんでいるガキ大将風の男の子と、小さな鯉のぼりを楽しそうに振る男の子。見栄を張って、ほとんど憎々しげな子供の表情がなんともいえません。
(『子供四季遊びの図』左側面 もぐら打ち 端午の節句 花まつり)
(端午の節句 刀を差して威張る子) (仏像に甘茶をかける子)
隣の枠は子供たちの祭礼風景、神輿行列です。先頭に旗持ち、続いて触れ太鼓を打つ子たち、次は獅子舞、そして樽神輿を担いで走る子どもたちです。これは天神まつりを真似ての遊びでしょうか。
この左側面に描かれた子供たちは、表情が豊かで肢体にも躍動感があり、実に見応えがあります。子供たちの肌の部分、特に足がとてもきれい。誰がこんな見事な子供たちを彫り上げたのでしょう。…作者は不明です。
そのほか背面や小窓部分には、縄跳びや輪回しなど、個々の遊びに浸る子供たちの姿が描かれています。今ではもうこういう遊びをする子供は、どこにもいなくなりました。しかし、強い郷愁を誘う子供たちの情景です。
この『子供四季遊びの図』彫刻は、場面を個々に見ていくと懐かしく楽しい絵なのですが、全体としては今ひとつイメージまとまらず、以前から奇妙な感覚を覚えていました。
そんな中、去る10月14日、中町3丁目舞台の修理審査委員会の折、松本建労会館作業室で解体された舞台部材を検分していて、一面に並べられた『子供四季遊びの図』を見た時、強い衝撃を受けました。各面により彫が全く違うのです。なぜ今まで気がつかなかったのか。多分舞台の各部分に設置されていると、隣り合わせて見比べるということが出来ないからでしょうが、無造作に並べられた作業室の台上では、その違いは歴然です。
山田棟梁にそのことを告げると、やはり気が付いたね、という表情で笑いを浮かべて、
「少なくも3人ぐらいが彫ってるね。」と、見解を示しました。
甘茶かけや祭礼行列など、初夏から夏の行事風景が彫られた左側面は
「これは、プロの彫り師の仕事だね。彫が深くて形になってるし、人物が生き生きしてる。」
反対側の右側面、秋・冬の情景は
「お弟子さんの仕事かね。」
その他、正面や小窓部分の彫刻については、棟梁は何も言いませんでしたが、私の眼から見ても小学生の版画と大差ないように見えます。玉石混交とはまさにこのことですが、それにしてもどうしてこういうことになってしまったのでしょうか。
(子供遊び図 左側面 プロ級) (子供遊び図 後面小窓 アマチュア?)
(子供遊び図 小窓部分 アマチュア?) (子供遊び図 左側面 プロ級)
一面を彫り上げたところで彫刻師が残りを弟子や孫弟子に投げてしまったか、或は場面ごとに実力の違うそれぞれの職人が受け持ったのか、棟梁や彫刻師の名前が分からぬ以上、理由は謎とするほかありません。
いろいろと奇妙なところもあるこの中町3丁目舞台彫刻ですが、持送りの花鳥図といい、2階正面の菊花彫刻、またこの『子供四季遊びの図』にしても、実に嫋やかな優しいテーマに満ちています。巧拙はあるにしても、舞台彫刻を見る楽しみを感じさせてくれます。
殊に『子供四季遊びの図』は、子供たちが髷を結っていることから江戸時代の風俗と意識されて描かれたものでしょうが、時代を超えて子供というものの持つ偉大な機能を教えてくれるようです。これは明治の『唐子遊び図』と言えるのかも知れません。
深志舞台だけ見ているとあまり感じませんが、時代が明治を迎えると各地の山車彫刻はテーマが大きく変わります。特に人物彫刻はそれまでの仙人図や二十四孝、福神や高士清談図などといった中国風のテーマが退き、古事記・日本書紀の神話・伝説場面や、太平記の忠臣を主人公にしたドメスティックなテーマが主流を占めるようになります。名古屋や半田など中京の山車は特にその傾向が強いようです。
山車・舞台の世界にもナショナリズム・イデオロギーの波が押し寄せてきたということで、これも御時世でしょうか。
この地方でも、例えば清水虎吉は中町3丁目舞台と同じ明治29年に「保福寺町舞台」の彫刻を手掛けますが、その左側面大判彫刻には「楠親子別れの図」と「児島高徳の図」が描かれます。明治29年といえば、日清戦争の直後、近代化を進めた日本が初めての大きな対外戦争に臨み、勝利した年です。戦後の国際干渉問題もあり、漸く芽生え始めたナショナリズムが急激に昂進した時期でしょう。虎吉が南朝物を彫るのも無理からぬところです。(因みにこの保福寺町舞台、反対面の大判彫刻は「松に鷹」と「コウノトリ」で、高欄下支輪部彫刻は「二十四孝図」が3面と、唐子の「司馬温公の甕割り図」まで付くという、およそ何でもアリ的な、よく解らない舞台なのですが。)
そうした時代に制作されたこの中町3丁目舞台ですが、時世臭とか、イデオロギー的な臭みが全くありません。只管、好ましい舞台像を目指して制作された舞台だと感じさせます。
洒脱なスタイルと斬新な塗り。花鳥図、子供遊び図など、平和で心安らぐモチーフの彫刻。階上では神主さん人形が、優しい笑みを含んでお祓いをしています。
時勢に迎合することなく、伝統にも捉われず、恬然としています。この舞台を企画し、デザイン・制作したのは誰か分りませんが、時代を考慮すると、ある意味で大胆な舞台だなと感じずにいられません。
16年後、明治45年に製作される隣町の「中町2丁目舞台」と、まさに好対照をなす舞台であり、舞台彫刻だと思います。(舞台保存会だより11)
中町3丁目舞台の彫刻は、年明け1月5日から中町の「増田家具デパート」のウインドウで1週間ほど展示されます。あめ市と併せて、是非ご覧ください。