舞台保存会だより63 播州姫路『三ツ山大祭』
播州姫路『三ツ山大祭』
先月初め、兵庫県姫路市の射楯兵主神社(イタテヒョウズ ジンジャ)で行われる「三ツ山大祭」という祭礼(3月31日~4月7日)を観に行ってきました。射楯兵主神社というのは播磨の国(兵庫県南部)の総社で、延喜式神名帳にも記載される格式高い古社です。そこで20年に一度斎行される三ツ山大祭は、神社の前に三つの大きな造り山を築き、ここに播磨の国をはじめ日本全国の神々を招いて饗応し、厄祓いと世の平安を祈る、そういうお祭りだそうです。平安中期に藤原純友の乱を鎮定するために催された天神地祇祭が起源であるとか。古いお祭りです。尤も私は由緒などはどうでもよく、日本最大とも謂われる造り山が見たくて出掛けて行ったのでした。
(射楯兵主神社 射楯の神と兵主の神 二柱の神を祀ります)
(奇妙な社殿で正面中央に柱があり、左右に分かれています。どちらでお参りすればよいのか?)
(合殿ですが本殿も二座 お供えもそれぞれに上げてありました)
新幹線で姫路駅に降りると、すぐにタクシーに乗り込み、
「射楯兵主神社へ。」と告げました。しかし運転手さんは反応しません。
「どちらです?」
「エーと、ではソウジャへ。」
「ソウジャ?…ソウシャですか?」
「ええ、そう、ソウシャへお願いします。」
姫路ではもっぱら「総社(ソウシャ)」と澄んだ発音で通用しているようです。松本流にソウザとか、世間一般のソウジャは通じませんでした。それにしても神社の正式名称「射楯兵主神社(イタテヒョウズジンジャ)」が通じないのには、少々驚きました。姫路では一番のお社の筈ですが。或いは神社が地域に十分過ぎるほどに馴染んでいる証拠かも知れません。
松本でも「四柱神社(ヨハシラジンジャ)」と言って通じず、「ああ、シントウかい。」とか、「シハシラのことだね。」というような会話は至極ありがちです。
(楼門とその上に築かれた門上殿 ここには射楯兵主の神をお祭りするそうです)
ときに総社とは何か。神道事典によると、総社とは『国ごとに国内の神社の祭神を集めてまつった神社をいう。』とあります。国とは信濃の国にとか播磨の国といった現在の県クラスで、国には朝廷から国司が任命されました。古代日本は祭政一致ですから、国司は赴任して国の神々を祭ります。任国主要神社の管理と祭祀を行うこと、また奉幣を行うこと、神祭りが国司の最も重要な任務でした。
しかし、日本の神は八百万(ヤホヨロズ)というように、国といっても神社の数は数百は下りません。主要な神社だけでも各地に幾らもありますから、国司はそのすべてに祭儀することはできません。そこで国府の近くに国内の神を集め祀った神社を設け、ここで祭礼を行った。これが総社と呼ばれる神社と、その機能になります。
したがって多くの場合、総社は国府の近くにありました。信濃の国の総社は、松本市惣社の「伊和社(イワシャ)」です。国府庁のあった場所は不明ですが、県の森付近が有力視されています。また、奈良時代以前には信濃国府は上田にあり、当時の総社は上田市常田の「科野大宮社」であったとされます。
播磨総社・射楯兵主神社はJR姫路駅から1㎞ほど、姫路城の巽(タツミ)方に鎮座しています。大祭のため人出が多く、神社前の道は交通規制されていました。タクシーを降り、人の流れに乗って進むと神社楼門前に布地と小松で飾られた三つの張りぼてのモニュメントが聳えています。バルーンかと見紛いますが、これが「三ツ山」です。人波の中に、直径10m、高さ18mという三つの巨大な造り山が並んでいました。
(二色山 播磨の国の神々を祀る) (五色山 九所御霊神というのは女性の怨霊神だそうです)
三つの山は「二色山」「五色山」「小袖山」と呼ばれ、それぞれ青と白の二色の布地、五色の布地、小袖山は何百という小袖(着物)を接いで飾られていました。その胴には小松の枝とともに、「俵藤太の蜈蚣(ムカデ)退治」とか、「富士の巻狩・仁田四郎の猪狩り」といった伝説絵巻が、アップリケ風に描かれています。内部構造はよく分かりませんが、ハリボテ風の構造を布で包んだ姿は、安曇のお船を思わせました。特に着物を接ぎ重ねた小袖山は穂高の子供船を想い起こさせます。ヤマとオフネでは別のものですが、いずれ造り物であることは共通です。繋がるところがあるのでしょう。
18mという高さはおよそ4階建てのビルにも相当しましょうか。巨大です。見上げるとヤマの頂上に竹と注連縄が張られ、南向きに小さな祠が祀られているのが判りました。それぞれ各地から招いた神を祀る社です。二色山には播磨の国の神々を、五色山には九所御霊の神々を、そして小袖山には日本全国・八百万の神々を祀るのだそうです。なるほどそれでは大祭です。
祭のきっかけとなった承平・天慶の乱は、国家の崩壊を危惧させるほどに当時の社会秩序の乱れ・動揺は大きく、純友ら海賊が瀬戸内を席巻していた播磨では、総社の機能を最大限に発揮しての祈祷、祈りが必要だったのでしょう。
(三ツ山に描かれた歴史伝説のアップリケ やはり退治物の題材が多いようです)
祭事に当り築かれるヤマというものは、造り物、出し物として古い形式になるようです。水野耕嗣先生によれば山車など造り物の起源は、平安時代、大嘗祭斎行に際し、大嘗宮の悠紀殿・主基殿前に造られた「標山(シメヤマ)」に求められるそうで、現在でも多くの山車がヤマと呼ばれるごとく、造り物の基本は神の依り代となる山を築くことにあったようです。大嘗祭の祭事から発生したヤマは、祇園祭に山鉾、船鉾など、出し車の形で発達し、山車と謂い、鉾と謂い、また屋台、お船、そして舞台と称して全国各地に広まりました。ヤマに車輪を付けて曳き回すということを誰が発明したのか、甚だ興味あるところですが、その前に山車の本質は、それがヤマであるということです。
ヤマには大別して、「置き山」「舁き山(カキヤマ)」「曳き山」があります。「舁き山」は神輿のように人が肩に担いで動かすもの。「曳き山」は車輪付きの、人が曳いて移動するヤマ。一般に山車と呼ばれます。そして「置き山」はそのまま据え置くヤマで、三ツ山はこの置き山ということになります。置き山はヤマとしては原初的な形態で、ヤマの原点と言えます。
置き山というのは全国的にも珍しいのですが、なぜ姫路に残ったのか?あくまで推測ですが、サイズを重視したためと思われます。
舁き山は人の肩だけで担ぎますから、あまり大きなものには作れません。その点、曳き山は何トンと云う重量でも曳行ができます。しかし車軸の限界ということもありますから、基本的には重量7,8トン、高さ10mくらいの造作がいっぱいでしょう。しかし置き山であれば、曳行の心配はありませんから、思い切って大きなものを造れます。
三ツ山大祭では、そのヤマに全国の神々を招きます。そこでどっしりとした、そして遥かに仰ぎ見るヤマを、神々の依り代として築いたのでしょう。
日本人の信仰の基本はヤマの信仰であると謂われます。カミはヤマに棲み、祖霊と共にその森深くに鎮まっています。春、桜の開花と共に人の住む里に下り、稲作と人の生活を見守るとされます。そして秋の収穫が終わるとまたヤマへ帰って行く。
カミとはヤマそのもの、とさえ言えるのかも知れません。
山から遠い都市部の祭りでも、山鉾、山車など、ヤマを象徴する出し物が祭の重要なアイテムとなっているのは、単に賑わいのためではなく、われわれが無意識の裡に、祭にヤマを需めるからではないでしょうか。
射楯兵主神社に一番近い山は姫路城です。松本城とは違い平山城ですから、城郭が築かれる以前は好ましい里山だったことでしょう。濠を渡って城内に入ると桜が満開でした。大天守は修復中で覆い屋の中ですが、その覆い屋のエレベーターで最上階の隣まで登り、修復中の天守閣を間近から見ることができます。反対側の展望窓からは姫路の市街が見渡せました。
姫路という町は人口50万余の大きな都市ですが、高層建築は姫路城のみで、周囲には意外と山が多く、盆地にいるような気分になります。すぐ隣には釣り鐘を置いたような丸い姿の男山、その向こうには書写山が春霞に煙るように見えました。どの山もピンクの桜をぽつぽつと山肌にあしらい、新緑も萌えだして、薫り立つようです。
翌朝、「門上・山上御饌祭」という、三ツ山の上の神様にお供えを差し上げるお祭りを見に行きました。
午前7時、社務所前に淨衣を着た4人の神主さんが整列し、それぞれ総代さんを従えて三ツ山と、楼門の上に築かれた門上殿に上っていきます。三ツ山は下にドアが付いていて鍵を開けて入ります。中に螺旋階段のようなものが作ってあるのだと思いますが、外からはどうなっているのか分かりません。そのうち上からゴニョゴニョと呟くような祝詞の声が聞こえ、おもわず頭を垂れます。声が止まり、見上げると山の上は朝日が当っていました。
20分ほどして神主さんたちが降りてきました。再び社務所前に整列すると、揖をして退下。これで終わりのようです。
人が散ったのであらためて根元から三ツ山を眺めると、駐車場の中に建っているのが分かりました。料金ゲートもあって些か拍子抜けです。三ツ山もちゃんと料金を支払っているのでしょうか?
『やっぱり、ヤマは動かないと面白くないな。』
聊か失礼な感想をまとめにして、大祭を後にしました。