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舞台保存会だより124 猪のはなし

猪のはなし

平成31年己亥(ツチノトヰ)、平成最後の年となるようです。干支は亥、干支の動物は猪となりこれも十二支の末尾。なにごとも納めの年ということでしょうか。

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(今年の正月の縁起物 干支の絵馬)

亥(ガイ)はイノシシの姿から起こされた象形文字だそうで、干支の文字と動物が合致している珍しい例です。仮名では「ゐ」と書くのが本来で、すなわちワ行のい。ワ行ですから古くは「うぃ」という風に発音されていたかと思われます。猪の鳴き声が語源でしょうか。

さて、年初には恒例で干支の動物の彫刻を紹介していますが、猪の彫刻というのはやはり少ない。十二支をすべて描いたシリーズ彫刻には当然顔を出しますが、まあイノシシ自体を彫りたいと思って彫刻された作品というのは、殆んど無いとしたものです。

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(十二支シリ-ズ彫刻の施された有明山神社裕明門と亥の彫刻 清水虎吉作)

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(岐阜県養老高田祭り「猩々山」の十二支彫刻「亥」立川富昌作)

深志舞台の中に猪の描かれた彫刻が一点だけあります。中町2丁目舞台の二階勾欄下の彫刻です。左側面の『和気清麻呂、八幡神を拝す』の図。野外で跪拝する人物の向こうに猪の駆ける様子が見えます。解説がなければ何のことかさっぱり分かりません。(あってもよく解らない)この図については以前『中町2丁目舞台の勾欄下彫刻』として紹介しましたが、今一度解説しましょう。(舞台保存会だより10

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(中町2丁目舞台の彫刻『和気清麻呂 八幡神を拝す』太田鶴斎作)

『和気清麻呂(わけのきよまろ・733~799)は称徳、光仁、桓武の三朝に仕えた、すなわち奈良時代から平安朝に移行する時代に活躍した大変重要な政治家です。特に称徳帝時代、弓削道鏡と正面から対決し、節義を貫いて皇統を護ったことは、比類なき忠節と称えられました。

称徳天皇の寵をほしいままにし、権勢をふるっていた僧道鏡は「道鏡を皇位に就けたなら、天下太平ならむ」という宇佐八幡の神託があったと聞き、確認のため和気清麻呂を宇佐神宮に使いさせます。しかし清麻呂がそこで受けた託宣は「天つ日嗣(あまつひつぎ=皇位)にはかならず皇緒をたてよ。無道の人はすみやかに除け。」というもので、帰朝してそのまま奏上したので道鏡は大いに怒り、清麻呂の官位を奪い罪人として大隅国に流しました。

この大隅配流に際し史書「日本後記」は次のような話を伝えています。

大隅への途次、清麻呂は脚が萎え、起立することができなくなります。(道鏡の刺客に襲われたためとも)しかし病を押して八幡神を拝するため豊前国宇佐郡楉田村(シモトダムラ)に到った時、野猪が三〇〇頭ばかり路を挟んで並び十里ほど走って山中に消える、という不思議に出会います。そしていよいよ八幡社を拝する日に脚が回復し歩くことができました。…』

拝礼する和気清麻呂と猪の図は、このエピソードを圧縮描写したものです。

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(中町2丁目舞台とその舞台人形『神武天皇像』太田鶴斎作)

それにしてもなぜイノシシなのか、それも三百頭も出現し走り去るのか、まったく分からない。とても不思議な話です。イノシシは八幡神の使いであるとか、清麻呂を警護するために現れたとか、解釈はいろいろありますが当て推量の域を出ません。

これも解釈ですが、古代史に屡々現れる王朝交代や政変に当たっての予兆的怪異現象ではないでしょうか。日本書紀では、あからさまに書くことのはばかられる御代替りや政変について、先立つ怪異現象を記録することで暗喩的に示すことがよく行われます。

この猪事件についても、その後の称徳帝から光仁帝への皇位の移行は天武系から天智系への王朝移動であり、続く桓武帝の時代には都も京へと遷ります。その政変遷都の中心人物が和気清麻呂であれば、猪の出現はその予兆暗示と考えられましょう。

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(『神功皇后と武内宿祢』) (『中大兄皇子と中臣鎌足』)

(中町2丁目舞台は舞台人形・神武天皇の回りに6面の忠臣彫刻を配する構成になっている(舞台保存会だより11))

なお、和気清麻呂は最初の宇佐派遣に際し八幡神の姿を見ています。真の神託を求めて社前に祈る清麻呂の前に忽然と現れた八幡神。その姿は、

「其長(タケ)三丈許り 色は満月の如し」という、素晴らしくキラギラしい偉容の神でした。

清麻呂は魂消て度を失い、平伏したまま「道鏡を除け」という託宣を聞きます。彼が都に戻って神託をそのまま告げたのは、道鏡の怒りを買うより、この神に逆らうことの恐ろしさを強く感じていたからかも知れません。

その後、称徳女帝の薨去により道鏡が失脚すると、和気清麻呂は赦されて中央政界に復帰します。そして桓武天皇のもと平安京遷都事業に携わり、無事にこれを成し遂げます。行政官としても優れた人物だったようです。

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(和気清麻呂と猪の出現に驚く従者)

後に八幡神は京の南西の地に勧請され、王城の守護・石清水八幡宮として天皇をはじめ朝廷から深い崇敬を受けました。八幡神が皇統を護ったことへの感謝と尊崇があったはずです。

更に源頼義・義家等の崇敬により源氏の守護神的な神となり、鶴岡八幡宮を筆頭に数多くの八幡宮が全国に勧請され、八幡信仰は日本の最もスタンダードな信仰となってゆきます。

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(駆ける猪)

すると神社の中でも特に数多いとされる八幡社と、八幡信仰普及のきっかけとなったのは、豊前国宇佐郡楉田村で起こった「猪三百頭疾走事件」ということになりますが、この日本の歴史・信仰史上の極めて重要なポイントに登場するイノシシという干支動物はいったい何者なのだろうかと、まばらな想像を巡らせてみます。