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舞台保存会だより6 中町二丁目舞台の修復開始・出てきた墨書

中町二丁目舞台の修復開始・出てきた墨書
12月2日深志神社ご神前にて魂抜・清祓いの神事を行い、中町2丁目舞台が修復に入りました。伊勢町2丁目に続き今年度2台目の修復となります。来期には本町2丁目が予定されていますので舞台修復はただいま2丁目真っ盛りといったところでしょうか。

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(中町2丁目舞台改修清祓い式) (式典風景)

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(神前にて二階部分を解体する) (大バラシされた舞台)

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(二階屋根天井部分、この裏に墨書がある) (鬼、二階欄間彫刻)

一週間後の9日、松本建労会館にて舞台修理審査委員会が開かれました。松本市文化財審議委員の中川治雄先生を始め、信州大学工学部土本俊和教授、古民家再生で名高い建築家降幡廣信先生など学識者、松本市教育委員会、そして舞台修理プロジェクトの職人、町会関係者がまずは建労会館実習室に集い解体された舞台の各部を点検しました。

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(解体された舞台を前に) (中央左より降幡先生・中川先生・土本先生)

最初に注目を集めたのは二階天井裏に残された墨書でした。平成16年の飯田町1丁目舞台の解体時以来久々に出てきた棟札・墨書です。
内容は製作年月日、製作者、そして舞台新築委員として13名の当時の人々の名前が記されていました。当日は中町2丁目町会より町会長以下6名の舞台委員の方々がお見えでしたが、そのうち4名の方の先々代名が記されており、墨書の周りには静かな中にも渦巻くような熱い想いが漂っているようでした。

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(舞台新築委員の名が記された墨書)

興味深かったのは製作年月日が起工と竣工と二つの日が記されていたことで「起工/明治四拾五年一月」「竣工/明治四拾五年七月廿五日」とあり、7月25日は深志神社の例祭日ですからそれ以前の完成と考えて、ほぼ半年で出来上がったことが判ります。
そして製作者ですが、これも多くの発見がありました。
まず大工、棟梁が山口権之正・助手山口徳之助と記されていました。これまで大工は山口権蔵と伝えられていましたが権之正はおそらく大工棟梁としての名前でしょう。助手徳之助は息子か兄弟でしょうか。更に興味深いのは山口権之正が「棟梁兼彫刻」と記されていることで、彼が舞台彫刻も受け持ったことが分ります。
次に塗りが高森正司とあり、これは今まで知られていなかった名前です。金具師は田口宇一郎、こちらは現在も中町の宮村通り沿いで営業している貴金属店「かざりや田口」さんご先祖のようです。そして「蛇腹彫刻並ニ人形製作」として太田鶴斎の名前が見えます。

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(製作者名が記された墨書)

これまで中町2丁目舞台の製作者としては、大工棟梁山口権蔵、金具師田口宇一郎、そして彫刻が太田鶴斎・南海、清水湧水と伝えられてきました。しかしこの墨書によると南海・湧水の名前はなく「蛇腹彫刻」すなわち一階と二階の間・支輪部の彫刻(6場面の忠臣説話彫刻)が太田鶴斎の作で、他は山口権蔵・徳之助の彫と読めます。
たしかに明治45年当時では太田南海は23歳。すでに一流の彫塑家の技量を備えていましたが、東京の米原雲海塾にあって卒業制作に励んでいる時期です。松本での舞台製作へ参加は難しかったのではないでしょうか。
また清水湧水は27歳。翌年に亡くなる父清水虎吉の後継として活動していたはずですが、それだけに製作に関わっていながら名前が記されないというのは不自然です。ということはやはりこの二人は彫刻に参加しておらず、山口権蔵・徳之助が多くの彫刻を手がけたと判断するのが妥当なのではないでしょうか。
少々専門的な話題となりましたが、舞台建造史にとっては重要な問題です。特にこの中町2丁目舞台にとって山口権蔵・権之正という大工・彫刻家の存在は大きなものとなりました。この人がどんな人物なのか、他の製作は何か、暫く追ってみたいと思っております。