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舞台保存会だより8 新年のご挨拶・中町二丁目舞台の菅公の彫刻

新年のご挨拶・中町二丁目舞台の菅公の彫刻

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あけましておめでとうございます。平成二十一己丑(つちのとうし)歳。新年の干支に因んで、博労町の牛を借りて新年のご挨拶を申し上げます。
いかがですか、この表情。舞台保存会だより5号でも紹介に与りました原田蒼渓先生に彫っていただいた献牛です。ずっと110年来深志神社ご神前に座っております。もう一頭仲間を紹介いたしましょう。参道を挟んで向かい側の杉の木の根元に鎮座しておりますこちらは石造の牛。本町1丁目の有志の方々から献ぜられ、やはり明治32年より110年ずっと座り続けております。

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(石造の献牛・台座に「明治三十二年第四月 奉祝菅廟千年祭為紀念」と刻まれている)

…えっ、どうして明治32年なのか?それはこの年が菅公御正忌一千年といって、菅原道真公がお隠れになって丁度千年目の式年にあたり、全国的に菅公を称えるお祭りが行われましたが、深志神社においても一千年祭が盛大に執り行われ、その記念としてわれわれも神前に献ぜられたのです。…えっ、なぜ献牛なのか?それはですね、道真公は承和12年(845)生まれで丑年であるなど生涯を通じて牛との縁が深く、公にとって牛はトーテムの如き動物だからです。多くのお社では神馬といって馬が献ぜられますが、天神社ではわれわれ牛が奉納されるのです。

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(石造の牛の顔・舌を出して鼻の頭を舐めている)

毎年正月から師走まで変わらずご奉仕していますが、丑年となるとわれわれもなんとなく鼻が高い。石造の相方はぺろりと舌を出して鼻を舐めています。分かりますか?律儀な観察者もいるもので変わった牛がいると報告され、彼は中央のテレビ番組にも取り上げられました。いずれにせよ今年は丑年、われわれの顔も見に来てください。
妙な具合に始めてしまいましたが、年頭の挨拶にあたり干支の牛を登場させましたら、人語を解しそうなこの献牛の表情から、つい牛になった気分で語りはじめてしまいました。
牛というと近頃は食肉のイメージが専らですが、かつて日本人と牛は生活をともにしていました。しかも単なる家畜ではない独特の精神性があり、何か強く人を惹きつける力があるようです。
牛に曳かれて善光寺参りでは老婆は理由はともあれ牛を追います。追った先で善光寺信仰に辿り着きますから、牛は人間を信心へと導く存在です。ギリシャ神話でもフェニキアの皇女エウロペはゼウスの化身した白い牛に誘惑されギリシャへと誘われます。この場合白い牛とは豊饒の象徴なのでしょうが、他の家畜では成立しがたいニュアンスがあります。エウロペの名はヨーロッパの語源です。ヨーロッパ文明もこの不思議な牛の魅力に惹かれて誕生したといえるのでしょうか。

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博労町献牛) (博労町献牛・上からの俯瞰写真)

菅原道真公にとっても牛との関わりは切っても切れない。その理由は丑年の生まれということもありますし、薨去の日が丑の日であったとか、またその死に臨んで自らの遺骸を運ぶ轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」と遺言として、実際その棺を牽いた牛がとどまり横たわったところを墓所と定めたなど、いくつかのエピソードが伝えられていますが、牛自身の持つ特別な宗教的雰囲気を外しては理解し難しいしょう。
多くの天神牛が脚を折り横臥した姿で表現されるのは、轜車を曳き止まった時の牛の姿で、神格化する道真公の導きの姿といえます。

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(中町2丁目舞台 正面・高欄下彫刻「少年菅公初めて詩を詠むの図」)

さて、これは現在修復中の中町2丁目舞台の正面・高欄下の彫刻です。
彫刻の図は11歳の菅公が初めて詩(漢詩)を詠む場面。菅公は幼名を阿呼(あこ)と云います。やはり著名な学者であり多くの門人も抱えていた父是善(これよし)は、わが子の学才を試すよう弟子の島田忠臣(しまだ ただおみ)に依頼しました。忠臣は菅公を漸く咲き初めた白梅の許に誘い、詩を詠むように促しまします。すると菅公は梅の木を前に直ちに見事な七言絶句を詠みあげました。この詩は「月夜に梅華を見る」と題され「菅家文草」の巻頭第一を飾っています。
「阿呼詠詩」とも呼ばれて著名なこの場面は古来多くの歴史画の題材となりました。菅公と梅の関係としても最初のエピソードで、大学者・菅公の誕生を告げる名場面です。

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(彫刻右部 月と梅花) (彫刻左部 少年菅公と島田忠臣)

高欄下彫刻は深志舞台の場合二階と一階の間・支輪部分に取り付けられた彫刻で、人が軽く見上げる高さになり最も力の入った彫刻が飾られます。彫刻は前後左右に6面。作者太田鶴斎はこの菅公の場面を最も重要な正面に置きました。その理由は謂うまでもなく菅原道真公が深志神社の御祭神であることと、もうひとつ、特に戦前においては菅公は歴史上代表的な忠臣として崇敬されていたことが挙げられます。
宇多・醍醐両帝に仕えた道真公は政治家として平安前期の国の隆盛期を築くとともに、大宰府に流された後も帝を敬う心を失いませんでした。武臣ではありませんが悲劇と重なり典型的な忠臣と言えます。後ろに控える従者の如き島田忠臣もその名前がサインになっているのかもしれません。
忠臣列伝となっている中町2丁目舞台の高欄下彫刻。他の場面については次回以降解説をしてみたいと思います。