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舞台保存会だより9 訃報、舞台保存会副会長太田滋氏逝去

訃報、舞台保存会副会長太田滋氏逝去
松本深志舞台保存会副会長太田滋氏が1月28日逝去されました。享年80歳。死因は肺炎で昨年暮れにこじらせた風邪が原因でした。心よりご冥福をお祈りいたします。

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(太田滋氏 平成19年「日本のまつり」にて高円宮妃殿下を案内する)

太田氏は中町2丁目の出身で、町会長など多くの役職を歴任され深志神社氏子総代も現役でお勤めでした。保存会では平成10年より会計として会の活動に参画され、特に平成11年JR東日本鉄道文化財団による深志舞台の保存と伝承事業認定に際しては関係団体との折衝および応募申請に尽力され、文化財団からの支援金獲得に貢献されました。舞台保存会の実質的活動はこのときに得た3年間で1500万円という基金によりはじめてスタートできたわけで、その意味で氏は当舞台保存会の生みの親の一人ということができます。
現在でもこの基金を元に舞台修理に際して舞台調査補助・融資などが行われ、平成の舞台修復事業の重要な支えとなっています。
役職とは別に太田氏が舞台と関係深いのは氏が彫刻家太田南海の子息であったことで、深志舞台の制作にも大きな足跡を残した太田鶴斎・南海の直系の人物であったということです。
現在、この舞台保存会便りでも連載で取り上げている中町2丁目舞台、この舞台の製作に中心的な役割を果たした太田鶴斎は氏の祖父です。鶴斎は一般に人形師として知られていますが、中町2丁目の舞台彫刻を見れば自明の如く彫刻家としても並々ならぬ技量を持ち、職人芸術家とでも呼ぶべき人物でした。
その子、即ち滋氏の父南海は近代松本を代表する芸術家で、地方作家として知られますが、中央(東京)に残れば彫塑芸術家として全国的な名前であったろうと謂われています。代表作のひとつが次年度改修を行うであろう本町2丁目舞台の彫刻、それと自ら設計監督をした本町3丁目舞台です。

 

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(本町2丁目舞台の彫刻・西王母) (ユニークな姿の本町3丁目舞台)

 

滋氏はこのような芸術家の家系の生まれ、ひとたびは彫塑芸術家の道を志しましたが断念、金融機関に勤め所謂サラリーマンとして青・壮年期を過ごされました。退職後は自ら考案した文書管理システムの発明によりコンサルタントとして自営活動をされていました。
本人や奥様の話など伺っていると太田滋氏は比較的満足した、充実した人生を送られたように感じましたが、やはり芸術家として祖父・父の跡を継げなかったことは氏にとって小さくないコンプレックスであったようです。父南海の伝記出版に当たって「(この伝記は)偉大な父の技を継承し得なかった不肖の倅が、七十五歳にして捧げる父への鎮魂歌です。」と述べています。
演劇史研究家河竹登志夫氏に「作者の家」という河竹黙阿弥家を継いだ家人の歴史を描いた伝記文学がありますが、偉大な父祖を持った子孫の負荷は、その子孫が優秀であればあるほど寧ろ重いものであるようです。父祖と同じ道に進んで才有ればそれもよいでしょうが、周りからは絶えず比べられます。なまじの仕事では人からも自らも責められることになります。「作者の家」で黙阿弥の娘糸女は女性としての自己をすべて犠牲とし、父の著作を守り作者の家を維持することにすべてを捧げます。そしてその養子繁俊(河竹繁俊…歌舞伎演劇史研究家、飯田市山本出身)は歌舞伎作者としての道は諦めながらも、黙阿弥の伝記を著し、さらにその全集を編むなど演劇史に重要な研究足跡を残して作者の家を継いでゆきます。
太田滋氏も同様、彫塑芸術家として父祖の業を継ぐことはありませんでしたが、平成16年「彫刻家太田南海?豊かな才能に彩られた人生?」を著し「作家の家」の宿題を果たされました。この本は才能豊かな太田南海という地方作家の生涯を思い出とともに綴ったものですが、ひとりの芸術家の生涯とその時代を描き出して非常に優れた著作だと思います。

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(「彫刻家 太田南海」太田滋・清澤章二編著)

松本の近代美術にとって太田南海の名前はビッグネームです。ただそれだけでなく松本の舞台の歴史の中で太田南海・鶴斎は重要な意味を持つ名前であると私は考えています。三代目として「作家の家」を継がれた故太田滋氏に敬意を払いつつ、その意味について引き続き考えていきたいと思います。