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舞台保存会だより27 伊勢町3丁目舞台の修復始まる・墨書も出現

伊勢町3丁目舞台の修復始まる・墨書も出現

(掲載の写真はクリックすると拡大します)
1月31日、深志神社御神前で魂抜きの神事を行い、いよいよ伊勢町3丁目舞台の修復が始まりました。舞台調査が行われたのは昨年4月のこと(保存会だより14)、秋には修復開始か、と見込んでいましたが些か遅くなってしまいました。松本市の補助金が絡みますので作業は年度を越えてあまり遅くなるわけにはいきません。神事を終えると同時に匠の会の大工さんたちはすぐに足場を組み、あっという間に大バラシの解体を始めました。

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(伊勢町3丁目舞台正面図 深志神社御神前にて)

ところでこの写真を見てお分かりでしょうか、この舞台正面から見ると左に少々傾いています。計測すればたぶん2度か3度だと思いますが、目で見ただけではっきりその傾きが分かりますからかなりのものです。かつての松本城のよう。これはやはり全面修復しないといけません。

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(神事終了後 さっそく解体される舞台)

舞台という山車は一見移動式二階建住宅のようなものですが、では普通の二階建の家に車輪をつけたら舞台のように動くでしょうか。それは動くでしょうが、おそらくたちまち壊れてしまうことでしょう。運行中の舞台は絶えず地震に見舞われているようのものですから慣性の法則により縦長の建物は階ごとに別方向に振幅しますので、極端に剛性を強めるか、あるいは徹底した柔構造にしないと壊れてしまうのです。
ここに舞台の構造上の特徴があります。特に問題になるのは2階床面と大屋根です。深志舞台の場合多くの舞台は10本の柱が立ち、そのうち6本が2階部を、残り4本が大屋根をそれぞれ別に支える構造になっています。まず2階を支える6本ですが、これは太い角柱で舞台台車の上に立ち1階フロアと2階フロアをコアとして構築します。下が台車であることを除けば普通の家屋と一緒です。ところが2階の大屋根はこれとは別の丸柱4本が台車部分から2階の床面を貫いて伸び(床に干渉せず)直接屋根を支える構造となっています。ですから慣性により2階床面が右に、大屋根が左に振れても構造にねじれや破壊を生じません。むしろ互いに揺れを吸収しあって振動を弱め消してゆきます。まことに理にかなった柔構造です。伊勢町3丁目舞台の傾きはこの柔構造が些か過ぎたため でしょうか。

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(土本研究室による深志舞台の構造図)

そんなわけで、御神前での大バラシでは二階の大屋根とそれを支える丸通し柱がまず外されます。屋根とその下の天井板が外されると人が集まりました。埃のたまった天井板裏を箒と布で払うと、今回は墨書が現れました。思わず歓声が上がります。墨書は三つに区切られた板面に、製作年月、建設委員として町会関係者名、製作にあたった職人名と区分されて記されていました。

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(舞台の天井裏から発見された墨書と伊勢町3丁目の人たち)

中央の建設委員は12名が記されています。当時の伊勢町3丁目の主役たちで、町の人たちは「これは誰それの爺さんだ、この人の子孫は今どこそこにいる。」そんな話で盛り上がります。
しかし、今回の墨書で衝撃だったのはその製作年と製作者名で、まず製作年が大正11年9月と記されていたことでした。これまで伊勢町3丁目舞台については明治25年の建造と伝えられてきました。明治25年と大正11年では約30年の開きがあります。
また、製作者についてはこれまで大工棟梁が「坂巻儀平」とのみ伝えられてきました。しかし今回の墨書では、坂巻の名はどこにもなく「大工棟梁・立石利喜太郎、塗物師・西牧由一、彫刻師・清水湧見、金具師・太田與寿」と4人の名前が現れました。

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(伊勢町3丁目の墨書 建造年月と職人の名前)

伝承と違います。しかし私は興奮しました。塗物師の西牧由一は初めて聞く名前ですが、他の3人は大正から昭和初期にかけて松本の舞台製作に携わった代表的な職人たちです。
まず立石利喜太郎は開智学校を建設した立石清重の再従兄弟(はとこ)で、一昨年大改修を終えた東町2丁目舞台の棟梁です。東町2丁目舞台は大正7年の製作ですから、大正年間には複数の舞台を手掛けていたことが判ります。
そして清水湧見はよく知られた清水虎吉の息子で彫刻師。通常は「湧水」ですが「湧見」と表記することもあったようです。東町2丁目舞台でも立石利喜太郎と組んで舞台彫刻を手掛けていますから、この二人はいいコンビだったのでしょう。また、現在改修が行われている本町2丁目舞台(昭和9年完成)では、彫刻とともに大工棟梁としてその製作に携わっています。
さらに金具師の太田與寿はやはり本町3丁目舞台(昭和13年完成)の鉄金具師として名を留めています。また本町2丁目舞台も確か鉄金具は太田氏の名が記されていたのを記憶しています。詳細はまだ調べておりませんが、おそらく地元の鉄鋼鍛冶職人でしょう。
さて、この墨書によって大正11年に上記の職人たちによってこの舞台が築かれたことははっきりしましたが、明治25年に坂巻儀平による、との伝承をどう考えるのかとの疑問が残ります。以前もありましたが伝承が間違っていたのか、或は再修なのか。その疑問は4日後の舞台修理審査委員会でほぼ解明されました。

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(修理審査委員会 職人さんたち) (修理審査委員会 町会のみなさん)

2月4日、例によって清水の松本建労会館で細かく解体された舞台を検分し、引き続き修理審査委員会が開催されました。その中で上記の問題につき大工の山田棟梁より興味深い報告がありました。棟梁によると解体してゆく中で台車部分から使われていない臍(ほぞ)穴が何ヶ所か出てきたとのこと。これはどうもかつての柱の臍で、現在の形に改修された際に使用されなくなり、そのまま残った痕であろうとのことでした。つまり、伊勢町3丁目舞台は一度大がかりな改修がなされていたことが明らかになったわけです。

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(解体された舞台構造 建労会館にて) (使われていない臍穴)

伊勢町3丁目舞台は正しく明治25年に坂巻儀平によって建造されたのでしょう。そして30年後の大正11年、大掛かりな改修が立石利喜太郎以下、墨書の人々によってなされ現在の姿になったと考えられます。以前の姿というのは記録がありませんから分かりませんが、山田棟梁によると臍穴の位置関係からしてかなり小さな屋根だったか、或いは二階屋根のない舞台だったのではないかと想像されるそうです。
実際2階の大屋根を支える丸通し柱も改修後の後付けで、台車部分には固定されていなかったとか。「傾くわけセ」と棟梁は笑いながら声をひそめて教えてくれました。

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(解体された舞台の部材)

ちなみに元来二階屋根のない深志舞台は、本町4丁目、5丁目、伊勢町1丁目、たぶん宮村町1丁目など、所謂2階が置台型とか櫓型と呼ばれる若干簡易型の舞台ですが、伊勢町3丁目舞台は台車の構造がそれらと違いますので、例えば本町5丁目舞台のような姿を原型と考えるのは正しくありません。ではどのような原型だったのか、舞台の歴史的形態の変遷を調べるとき興味の尽きない問題です。
修理審査委員会では、今回いくつか新しい改修方針が決まりましたが、長くなりますのでまた改めて紹介したいと思います。

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(銅板で葺かれている大屋根 同様に銅板で屋根を葺くことになった)

町会の皆さんからは舞台が左に曲がる傾向があると、直進性について注文がありました。棟梁はこの舞台の車軸は実にしっかりしたものでその性能には問題がない、木部への取り付け方法で調整を図るようにしたいとの返答。あれだけ上部が傾いているのだから、左へ曲がるのは極めて正常な挙動ではないか、などと考えつつ質疑を聞いていました。

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