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舞台保存会だより71 再び、飛騨の匠 山口権之正

再び、飛騨の匠 山口権之正
(できれば、前回の「たより」に続いてお読みください→舞台保存会だより70
昨年10月の「たより」で六九町舞台の竣工を紹介しましたが、屋根裏から見つかった棟梁名について解決しておきたいと思います。(舞台保存会だより68

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(六九町舞台(修復前)とその2階棟木の墨書)

六九町舞台の修復には関与していませんので精確なことは申し上げられませんが、解体清祓式と舞台の大バラシが行われたのは昨年の4月6日でした。大バラシはまず2階部分を解体していきます。屋根材と天井板が外されて骨組みだけになったとき二階屋根裏の棟木に墨書が現れました。たいへんきちんとした楷書で書かれていますので、写真を見てのとおりですが、次のように記されていました。

『棟梁 飛騨匠 □口権之正 藤原宗次』

その側面には

『明治廿九年九月廿八日撰定建之』とあります。上棟式のことと思われます。

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(降ろされた棟木と棟梁名の墨書 背中は山田棟梁)

□の部分、「飛騨匠」に続く名前の最初の一字が絵文字のような甚だ不可解の文字です。筆記体アルファベットのmにもう一つ山を足したような…、これはいったいなんでしょうか。

暫し頭をひねって思案しましたが、これは「山」の崩し書きと考えて間違いなさそうです。

漢字が象形文字として創られ、その形質を留めながら現代にも使用されていることは周知のとおりですが、その最も古い形、甲骨文字では山の字は下記のように記されます。

甲骨文字 山60px-山-oracle.svg
(甲骨文字による《山》)

山の字
(不可解な一字)

鋭角三角形が三つ並んだ形、三つの稜が天を刺すようにそそり立つ形です。この甲骨文字《山》を普通の漢字のように左上から筆記体風に続けて書けば、棟木の墨書のような文字になりはしないでしょうか。

すると飛騨匠に続く名前の前半は「山口権之正(ヤマグチゴンノカミ)」になります。

そう、六九町舞台の大工棟梁は、かの山口権之正こと山口権蔵なのでした。

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(有明山神社手水舎と山口権之正によるその描画図面)

それにしても普通に「山口」と書けばよいものを、なぜわざわざ甲骨文字の筆記体といったような書き様をしたのでしょうか。この点を山田棟梁に聞いてみましたら、それは大工のサイン(花押)ではないか、とのことでした。

大工さんは建築材の木口などに簡単な記号を書き入れて間違いなく組んでいきますが、時おり自分の仕事であることを示すために、見えない所に自分の花押を入れることがあるのだそうです。(山田棟梁は花押とは言わず、印しとかサインとか呼んでいましたが)大工は継手や組手などの細工・技術で会話するといいます。それはいつかその建築物を解体して修復を行うかもしれない未来の大工に対するサインなのでしょう。

山口権之正がこの花押(サイン)を実際に用いたのかどうか分りませんが、ここは洒落て使ったということではないでしょうか。

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(有明山神社・手水舎の彫刻 欄間部分)

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(雲竜の彫刻が施された手水舎の天井板)

次に名前の後半、「藤原宗次」とは誰のことでしょうか。これは別人ではなく山口権蔵の姓名(本名)と思われます。

日本人の名前は現在では名字と名前だけですが、中世から近世にかけては基本4部構成になっていました。すなわち『名字・通称・本姓・本名(諱)』になります。

西郷隆盛を例にとれば、その正式な名前は『西郷吉之助 藤原隆盛』で、「西郷(名字)吉之助(通称)藤原(本姓)隆盛(諱)」という構造になっています。通常、呼称として社会に流通する名は名字と通称(西郷吉之助)で、本姓と諱(藤原隆盛)は秘められていました。特に諱(イミナ)はまさに「忌み名」であり、他人が会話の中でその名を呼ぶことは禁忌とされました。

また、名字は通称とセットで社会的人格を表し、本姓と諱は家系的人格を示し、それぞれが混在することはありません。したがって「西郷隆盛(名字と諱)」という呼び名は、本来はあり得ず、正式名の中間を取り去った記号的な呼称ということができます。実際こういう呼び方は、在世当時はされなかったようです。

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(山口権之正による有明山神社・裕明門の図面 清水虎吉と競ったようです)

さて山口権之正に話を戻しますと、上記の伝で彼の正式名は『山口権蔵[権之正] 藤原宗次(名字/通称[受領名] /本姓/諱)』となります。中世の武家棟梁のような格式高い名前です。殊に「権之正(ゴンノカミ)」は受領名*であり、おろそかに名乗ることはできないものです。

飛騨の匠は多く受領名を持っていたとされていますが、昔から誰もが持っていたわけではなく、江戸時代の中期以降に何人かの棟梁が名乗っただけのようです。水間相模守、谷口権守、森本大和正、村山陸奥守などが知られています。彼らは江戸時代、一門を構えた飛騨匠の名家で、棟梁の中の棟梁といった家柄でしたから権威づけのためにも受領名は望まれました。しかし勝手に名乗るわけではなく、役所に受領名を名乗りたい旨の願いを出し、京都の然るべき公家から許しを得て拝領したようです。

*受領名…江戸時代以前、武家や神職などが通称として用いた非公式な官職名。

もともとは律令制度のもと、任国に下向した国司などの官職名だったが、近世以降は形骸化して御所や寺院の用を果たす商工業者にも金品次第で授与されたため、一種の名誉称号となった。受領名を有した職人や業者の商品は、高いブランド量を持ったといわれる。

公家や寺院にとって、その授与は重要な収入源となり、乱発された。

しかしこのようなことも封建時代の終焉とともに行われなくなり、明治以降では誰も受領名など名乗らなくなります。

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(有明山神社・手水舎天井板に彫られた落款「山口権之守」と刻まれている)

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(図面に捺された落款「飛騨之匠」と「山口権之守」)

ところが、明らかに明治の大工と思われる山口権蔵は受領名「権之正(権守)」を名乗りました。おそらく私称・僭称でしょう。もともと飛騨匠の系譜には棟梁家としての山口一門というようなものはなく、山口権蔵も明治9年の「煥章学校の鷹」で初めてその名を顕す大工です。代々の棟梁家という人ではありません。要するに由緒ある家系の棟梁ではなく、江戸時代であったなら決して受領名を名乗ることなど許されなかった人物です。明治であったから勝手に名乗ることもでき、そして名乗ったのだろうと思います。

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(煥章館の鷹)

しかし彼は受領名だけでなく『藤原宗次』(フジワラノムネツグと訓むのでしょう)と姓名を名乗ります。これは山口権蔵の本姓と諱で、姓は藤原、名は宗次ということになります。それはそういうことなのでしょうが、この藤原宗次という名前、なかなか意味深長です。というのも、室町時代に活躍したとされる伝説の名工『藤原宗安』という人がおり、この人物こそ飛騨の匠技を完成させた飛騨匠の祖なのです。

武家で云うなら八幡太郎義家といった名前、茶道ならば千利休に相当しましょうか。実際伝統的な飛騨匠一門には遠祖を藤原宗安とし、その末裔を唱える家が多いようです。

そして山口権蔵の名乗る「藤原宗次」。彼は自分こそ藤原宗安の末裔であり、血筋からも飛騨匠の嫡流であるということを訴えているのでしょう。

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(有明 香取神社の拝殿) (梓川下角 恭倹寺鐘楼)

ここまで書いてくると微笑ましくさえ感じられてきますが、山口権之正という人は、大時代な、聊か大仰な人物であったのだろうと推測されます。悪く言えばハッタリ屋、権威主義者、僭称に違いない受領名や、藤原宗安の裔などと名乗ってこれを掲げるとは、相当の強心臓の持ち主と言わなくてはなりません。いったい文明開化の明治の御代に、あらためて権之正などという受領名を名乗る神経は、当時の人にとっても不可解だったでしょう。

しかし見方を変えれば、このような重い名を背負って、匠としての生涯を歩いたということは、その心臓以上に強い意志の持ち主だったのだろうと想像します。飛騨の匠の名は、他人に誇る以上に己を律する掟であり、規矩準縄だったことでしょう。

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(中町2丁目舞台の天井板に記されていた墨書 これは太田鶴斎の筆と思われる)

現代人には「誇りと自負を心の糧に」という生き様は、空想の世界に近いものがあります。しかし江戸時代に生を享け、偉大な先輩の飛騨匠の姿を目にしながら、その道に進んだ山口権蔵にとっては、明治の世に匠として生きることになっても、飛騨匠の名は受領名や匠としての血脈とともに、彼の夢であり強い憧れであり、捨て去ることのできない心の支えだったのではないでしょうか。

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(中町2丁目舞台) (六九町舞台)

中町2丁目舞台と、このたび六九町舞台の棟梁としてその名が確認された山口権之正。煥章館の鷹の作者であり、飛騨、信州にまたがる社寺仏閣の棟梁である飛騨の匠山口権之正。

大時代な名乗り故か、私には寧ろユーモラスで慕わしい名前に感じられます。

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(中町2丁目舞台の持送り彫刻 浦島太郎)