1. HOME
  2. ブログ
  3. 舞台保存会だより72 明治初期の舞台

舞台保存会だより72 明治初期の舞台

明治初期の舞台
まもなく『平成の舞台修復事業』最後の舞台修復が始まります。宮村町1丁目の舞台です。

当初、宮村町では舞台修理を行わない方針でした。昭和55年と平成5年に二度、修理というか、一部舞台の改造を行っていたからです。しかし、よその町会の修復状況を看、またこの夏斎行される「天満宮御鎮座400年祭」も圧力となって、急遽修復を行うことに決したようです。

おそらく3月早々には解体して詳しい舞台調査も始まることと思いますが、その報告は追ってしていきたいと思います。

神道まつりH23
(宮村町1丁目舞台)

ところで、この宮村町1丁目舞台は明治20年代の建造と伝えられます。深志神社の16舞台、あるいは『松本城下町の舞台』18台中、明らかに江戸時代建造の舞台は「博労町舞台」の1台のみですが、明治期の舞台は12台あります。数的には深志舞台の中核をなす舞台群ということができます。

この明治期の深志舞台と云うのは建造年代でおよそ初期・中期・後期に分かれ、それぞれの期で特徴があります。昨年9月のたより『深志舞台の由来』の続きになりますが、今回は明治初期の深志舞台について考えてみたいと思います。(舞台保存会だより67

さて、明治初期建造の深志舞台に当たる舞台として挙げられるのは、まず昨年と一昨年にそれぞれ修復を終えた「本町4丁目舞台」と「本町5丁目舞台」です。「飯田町2丁目舞台」も明治5年の建造と伝えられ、年代的には明治初期舞台の範疇ですが、この舞台はかなり特殊な舞台なので、ひとまず別のくくりで考えたいと思います。

本町4丁目の舞台 007本町5舞台竣工0003
(本町4丁目舞台) (本町5丁目舞台)

一方、「伊勢町1丁目舞台」は建造年次が不明ですが、町会記録に明治26年に修復の記事

があるので、少なくともそれ以前の作とされています。この舞台は基本構造が本町4,5丁目舞台とほぼ同一なので、私は明治初期の建造ではないかと考えています。したがって明治初期型の舞台と云うのは「本町4丁目」「本町5丁目」及び「伊勢町1丁目」舞台と考え、その建造時期は明治10年前後と推測します。

天神まつりH240052
(伊勢町1丁目舞台 二階屋根と下部の彫刻は平成10年に加えられた)

これらの舞台には他の時期の舞台にはない、たいへん個性的な特徴があります。それは本町4丁目、5丁目舞台の修復に際してたびたび取り上げてきたことで、まとめると次のような点です。

① 小型で簡素な形態の舞台である。
② 台輪構造がなく、フレームだけのマッチ箱のような構造をしている。
③ 二階屋根がない。(伊勢町1は後から付けた)
④ 屋根の代わりに二階に櫓のようなものを載せる。
⑤ 一階の床に前左右へのせり出しがなく、また四方の小屋根もない。
⑥ 彫刻はなく、飾り金具も少ない。舞台自体に装飾がない。
⑦ それぞれ先代の舞台は大型で、明治期に売却されている。

小型で構造も簡単、彫刻や細密な飾り金具を付けて舞台を飾ろうという意図も全くない、形だけの舞台。不思議な舞台です。

舞台というものは、個人や町の生活にとって必需品ではなく、祭礼のダシ車ですから、要は遊び道具で、娯楽と綺羅を競う見栄の道具です。

『どうだ、俺たちの舞台が一番でかいだろう。』

『この彫刻は諏訪の和四郎だ。この辺にこれ以上の彫り物を付けてる舞台はない。』

舞台のような祭礼具はダテと張り合いが身上ですから、大きいこと、豪華なこと、派手なことが正義です。小さくて簡単で飾りのない舞台など、極言すれば存在する価値がありません。いったい何をアピールするというのでしょう。

ところが明治の初めにはそういう舞台が造られる。これはどういうことでしょうか。

011019
(修復に向かう本町5丁目舞台 小ささとシンプルな構造がよく判ります)

これまでもたびたび触れてきましたが、深志舞台には大きな謎があります。明治期における舞台の売却です。本町2丁目と上記3町会がこの謎の主役で、各町それまで所有してきた大きく豪華な舞台を売却し、代りに小型で簡素な、飾り気のない舞台を建造しました。

舞台が売却されること自体は不思議ではありません。山車まつりを行うどこの地区でも、古い山車を売り払ってその代を元に新しい山車を造ります。新しくて更に大きく豪華な山車を造るのです。

ところが明治期の深志舞台は小型の簡易な舞台にスケールダウンしている。小さく貧弱なものにするくらいなら、舞台の売却・更新などハナから考える必要もないではないか…。

さらに舞台の建造と、売却に時期がずれていて、各町会は暫くの間(数年から十数年ほど)複数の舞台を所有しており、これがもう一つの謎です。

舞台が売却されるのは明治10年から20年代にかけてで、そうすると小型舞台の製作と舞台の売却には直接的な因果関係はないことになりますが、ではなぜ町会は売却の見込みもない舞台を保持したままで、敢えて小型舞台を製作したのでしょうか。

池田八幡宮舞台H.25 087池田八幡宮舞台H.25 099
(明治27年に売却された元本町4丁目舞台・池田本町1丁目舞台とその由緒記事)

この謎、舞台の小型化と大型舞台の売却の理由については、いくつか説があります。

① 舞台が重くて、その曳行が困難になった。(本町4丁目)
② 道路が傷むため、重い舞台の曳行禁止令が出た。(伊勢町)
③ 明治21年大火の影響《舞台の置き場所がなくなった》(本町2丁目)
④ 〃 《街の復興資金を作るため》(本町2丁目)
⑤ 小型舞台は「あめ市」専用に作ったが、後に天神まつりでも曳き回され、大きな舞台の出番がなくなった。

大町大黒町舞台 024大町大黒町舞台 042
(明治21年に大町大黒町に売却された元本町2丁目舞台)

DSCF1867DSCF1857
(現在も舞台庫に残る、明治11年に建造された本町2丁目の簡易型舞台と、本町1丁目の旧舞台)

以上の説を検証してみますと、

③と④は、本町2丁目舞台の売却についてその理由とされるところです。但しほかの町会にも通ずる一般論にはなりません。また本町2丁目は先立つ10年前(明治11年・1878)にやはり簡易型の舞台を造っています。
①と⑤については、蓋然性が高いと考え、本町4丁目舞台修復の際に推論したことがあります。(舞台保存会だより49
①は舞台行事に対する町会の力(人口や経済力、情熱)の低下、という要因が前提になりそうです。一応納得のいく説ですが、そうはいっても舞台は町の象徴、誇りであり、町民の減少と高齢化が超深刻な現代ならいざ知らず、多少重いからといって素晴らしい舞台を引退させて小型舞台に差し替える、というようなことがあるのでしょうか。
また、⑤のあめ市専用に舞台を造った、という説も、経費や保管のことを考えると却って手間の掛ることで、冷静に考えれば有り難いことです。
すると②の「重い舞台の曳行禁止令が出た」が説として残ります。

いろいろ0085いろいろ0124
(明治10年に売却されたとされる元伊勢町舞台 波田地区・下波田の舞台)

この説はかつて伊勢町の古老が言い伝えたと聞いていますが、伝承です。ただ、元伊勢町の舞台を買った下波田でも売却理由として『明治初年頃に松本の道路が改修され、道を傷める重い舞台の曳行が禁止されたため』と伝わっているそうです。下波田村が松本伊勢町から舞台を買ったのは明治10年のこと。想定される明治初期型舞台の建造時期と一致します。この時期に松本の町では何があったのか、また本当に禁止令は出たのでしょうか?

明治9年以前の松本は筑摩県の時代で、松本に県庁が置かれていました。この頃の法令等の資料は乏しいのですが、私が調べた中には特に舞台の曳行を禁ずるというような布達は見えませんでした。ただ明治8年3月に「道路規程」というものが出され、区長や戸長宛に道路の清掃をきちんと行うよう通達も出されています。布達者は筑摩県権令・永山盛輝です。

033034
(明治8年の道路に関する布達、及び「市在道掃除規則・牛馬牽連心得規則」)
(ともに末尾に「筑摩縣権令 永山盛輝」の名前が見える)

永山盛輝(1826~1902)は薩摩藩士で筑摩県の初代権令(県知事)となった人物です。彼は国の近代化には教育が欠かせぬとの強い信念に基づき、学校教育、学校建設に最大の力を注ぎました。開智学校をはじめ、県内を隅々まで巡って学校建設を説き、その熱心さから教育権令と綽名されました。永山の在任は明治4年から8年までの短い期間でしたが、明治9年の長野県合併時には、筑摩県内に小学校が656校成立していたといいます。後に信州が教育県と呼ばれるのも、永山盛輝の名を外しては語れません。

一方で永山は、施政民の遊惰・安逸を嫌いました。また江戸時代的なもの、前近代的な風習や風俗も大嫌いだったと思います。市内の芝居や遊技場を取り締まり、若者組の活動も規制しています。遊興や祭礼における若者組の発散は前近代的で、新しい教育が切り開く文明開化の新日本には逆効のエネルギーと見えたのでしょう。

DSC00459DSC00469
(旧開智学校 明治9年完成) (永山盛輝)

就中、夏の天神まつりでは舞台曳きとか云って町の若者が県都の町中で大型舞台を曳き回し、せっかく整備した道路を掘り返してして気勢を上げている。そんな有り様を見た永山盛輝の心中に沸き上がった思いは如何だったか。

文書で確認はできていませんが、権令の口から松本区長に向けて『道路を傷めるような祭礼行事は、今後罷りならん。』と口達が出たのではないでしょうか。

国にとって道路とは体に譬えて血管のようなもの。近代化・殖産興業を進める明治国家にとっては尚さらで、県都のそれも幹線道路の破損は、ほとんど犯罪行為と映ったことでしょう。重い舞台の曳行禁止令が出た、ということは十分にありそうなことです。

天神まつりH.25 078
(舞台の曳き込み風景)

舞台町会は困ったことでしょう。
…お上からお達しが出た。舞台曳きはよくないそうだ。
…舞台行事はできないのか?もうとりやめか?
…舞台を曳き回すと道路が壊れると…。重いから。
…道路が傷まなければいいのだったら、思い切って軽い舞台にしたらどうだろうか。
…軽い舞台!それだ。時間もないからさっそく大工に造らせよう。飾りもいらない、屋根がなくてもいい。とにかく軽い舞台にして舞台曳きだけはやろう。

天神まつりH.25 234天神まつりH.25 231
(天神まつりで神前を曳かれる本町4丁目と本町5丁目舞台)

舞台進化論の過程で、明治初期に舞台が突如プリミティブに変容(退化)するのは、そのようなストーリーが最も妥当ではないかと思います。
いずれにせよ明治という時代は伝統文化にとっては受難の時代でした。薫り立つような江戸文化は一気に萎み、因循姑息の烙印を捺されて切り捨てられます。
教育とか文明とか云う立派な楼閣も、多くは打ち壊された古い文化の残骸の上に築かれていることを知らなくてはならないと思います。