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舞台保存会だより76 第7回松本市舞台サミット

第7回 松本市舞台サミット

去る6月7日、平成26年度の松本深志舞台保存会総会が開催されました。深志神社梅風閣3階「飛梅の間」において、25年度の事業報告並びに決算報告が審議され、新年度事業計画及び予算案も承認されました。また今年は2年に一度の役員改選の年で、これも審議されましたが、会長以下三役留任ということで、現体制のまま今後2年間継続することとなりました。関口会長は2期目となります。

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(総会であいさつする関口会長)

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(舞台保存会三役たち)

26年度は事業が多彩です。まず、すでに済ませましたが、6月1日に『JR松本駅前広場ふれあいデー』での舞台展示。5台の舞台が駅前に展示されました。

出場したのは、本町2丁目、本町4丁目、伊勢町1丁目、中町1丁目、中町3丁目、以上の5つの町の舞台です。『ふれあいデー』のイベントは恒例行事になるようですので、毎年交代で数台ずつ展示することになるのだと思います。

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(6月1日 松本駅に展示された舞台)

そして今年は松本大歌舞伎の年。お練り『登城行列』があります。7月20日の予定。今回は舞台3台が出場します。伊勢町3丁目、東町2丁目、そして本町1丁目、の3舞台。

一昨年は朝方の降雨により、出場できませんでした。今回はぜひ良い天気であってほしいものです。お囃子スクールの生徒たちも、始まる前から楽しみにしているようです。

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(平成22年の「登城行列」風景)

引き続きその一週間後の7月27日には、『深志神社天満宮御鎮座400年祭』の奉祝祭が斎行され、奉祝行列行事が執り行なわれます。

27日の午後1時半ころ、二基の深志神社神輿(元禄神輿)を先頭に、16台の舞台が続いて神社を出発します。舞台は3時ごろ伊勢町Мウイング前に一列に集結。ここで16舞台が一斉に祭囃子を演奏する予定です。伊勢町通りに祭りの笛が鳴り響き、数十の太鼓が街中にこだましたら、いったいどんなでしょう。思い描くだけでファンタスティックでワクワクします。

やがて神輿と稚児行列が伊勢町に揃ったら、あらためて出発。舞台は神輿・稚児に続いて、それぞれの町に向かいます。

平成14年の『菅公御正忌1100年大祭』以来、12年ぶりに街中で壮大な絵巻が描けそうです。詳しい日程は次号に掲載しますが、滅多にやらない大行事ですので、当日はぜひ松本の町中にお越しください。神輿、稚児、舞台で伊勢町を埋め尽くします。

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(平成14年 菅公御正忌1100年大祭の行列風景)

そして今年は3年ぶりに『舞台サミット』を開催することとなりました。『第7回 松本市舞台サミット』です。相変わらず、勝手に舞台町会のサミット会議を自称していますが、一応松本市内の舞台保有町会とされる町に案内状を送ってあります。期日は例によって保存会総会の6月7日、この当日。総会終了後の午後5時から開催しました。

今回のサミットは講演会です。地域史研究家の田中薫先生に講演いただきました。

田中先生を選んだのは、松本藩の歴史に詳しく、資料を読み込んでの篤実な研究をしておられることは勿論ながら、『河辺文書』を詳細に読み解かれ、深志神社や深志神社氏子の祭礼等に特にお詳しいからです。

舞台のことも、その古い姿や様式、曳行の次第なども解説していただけるのではないかと期待しました。演題は『祭りと舞台~その歴史的イメージ』というものでした。舞台サミットに相応しい演題です。

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(舞台サミット講演会と田中薫先生)

田中薫先生は昭和10年のお生まれですから、今年79歳。数えなら80歳になられます。にもかかわらず、資料はすべてパソコンで作成され、講演もパワーポイントでスクリーンに投影しながら説明されました。(ただ、画面の映像は文字資料ばかりで、手元のレジュメと同じ内容が写っていたのは、聊か苦笑ものでしたが…)

講演が始まって驚いたのは、田中先生がこの「舞台保存会だより」を取り上げて、その中から舞台の発生史を改めて考察してくださったことでした。先生が採り上げたのは天満宮御鎮座400年についてその由来を解説した回(舞台保存会だより62)と、深志舞台の由来を再検討した回(舞台保存会だより67)でしたが、歴史家の先生が、講演する対象の団体の名を冠しているとは云え、このような素人ブログをまともに取り上げてくださるというのは、申し訳ないというか、穴があれば暫し入っていたい気分でした。

先生が再検討してくださったのは、例の『深志舞台発生=元禄5年』説で、この「たより」では、『河辺文書にある記述からは、或る種の舞台運行形態が元禄5年に始まった、と読めるだけだから、舞台自体はもっと早期に出来ていたのではないか?』と推論したのですが、この考えは妥当かというものです。

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(河辺文書 舞台初見の記述『太守累年記』)

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(河辺文書 『代々諸事書留覚』に見える元禄5年に舞台が初めて登場する との記述)

結論から言うと、確かにその可能性はあるが、古文書資料を詳しく渉猟してみても元禄5年以前には舞台についての記述は見えない。資料に見えないものは証明できないから、今のところ元禄5年を舞台最初の年と措定するのは妥当である、ということでした。そして、より重要なことは舞台誕生の年号よりも、舞台という祭礼行事を生むに至った城下町共同体の発達と、その成長過程を見ることである、と。

田中先生の講演の概要は、江戸時代初期に現代に連なる地域共同体を成立させ、その中で深志神社の在りようが変わり、南深志の産土神となっていったこと。その産土様への奉納行事として、様々な奉納が行われる中、やがて舞台が発生し、舞台を中心とした共同体の祭礼が発達していった、その変遷の過程が語られました。

江戸時代というと、封建社会ということで、初期から幕末までフラットな、大きな変化のない社会イメージしか思い浮かばないのですが、実は今日の日本社会の基礎が形作られた極めて創造的な時代なのです。現在われわれが空気のように感じている地域共同体は、たいてい江戸時代に成立し、その時代を通じて発達して完成しました。そして、村や町というその共同体は主に神社の祭礼に依拠して内部の絆を深め、より力強く発展してゆくのですが、その祭礼用アイテムがまさに舞台で、そうしてみれば山車・舞台というものの担った歴史的意味合いというものは、全く軽視できないものがあります。

『舞台は生活必需品ではなく、要は遊び道具で…』などと、おろそかに浅間しいことを言ってはいけません。

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(田中先生が重視して研究する町の会計簿『年々祭礼入用覚帳』)

講演はまず江戸初期における松本城下町の形成から、寛永11年(1634)をメルクマールとして城下町・南深志に町民による共同体、いわゆる町衆社会が成立し、深志神社がその産土神へと進化してゆく過程が語られました。

その町衆社会の発達の中で舞台が登場します。おそらく元禄5年(1692)に「舞台」という祭礼アイテムが出現しました。舞台は神社の周囲を巡るとともに、それまで祭りに神社拝殿などで奉納されていた舞や芝居などを、舞台上に移したものと考えられます。だから「山車」でなく「舞台」なのでしょう。

そして、このころの舞台は南安曇のお船のように毎年新しく作っていたらしい。但し、台車など基礎の部分は一度造って何年も使い、舞台部分や飾りは毎年新しくしたもののようです。祭礼費用をまとめた出納簿からは、そのように読み取れるそうです。

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(及木伍社とその舞台 後方に提灯と幕を掛けた長い尾のようなものがあります)

講演を聴きながら、ふと或る舞台のことを思い出しました。安曇野市三郷の及木(オヨビキ)伍社の祭礼に曳かれている舞台です。安曇というところは不思議なところで、穂高神社や住吉神社のように雄大なお船が曳かれる一方で、小ぶりな舞台も曳かれます。舞台は宵祭りと昼祭りと違うものが曳かれたり、宵祭りは雪洞と提灯を付けた舞台、昼祭りには幕を張ったお船が出てくる所もあります。いずれにしても特に宵祭りの舞台は、簡素なものが多いです。

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(宵祭りの舞台 赤い提灯が祭りの雰囲気を醸します)

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(昼の祭り 御布令(オフリョウ)の前にお祓いを受ける)

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(社前での曳き回し風景 千度石の周りを三周します)

及木の舞台は、お船と舞台が入り混じったような少し変わった舞台で、曳かれて来て社前を三周するのですが、本祭りが終わるとそのまま拝殿前で解体されます。祭りが終わって社務所で神職と総代さん(たしか5,6人でした)が直会を始めるころ、表では祭典係によりクジラでもバラすように舞台が解体されてゆきます。屋根が外され、縄が切られ、木材や幕がそれぞれに分けられて、最後は台車部分だけが残ります。ものの30分ほどでしょうか。「祭りの後」という言葉をしみじみと感じる光景です。

深志舞台も、初期の頃はあの様であったのかも知れないと、ふと思い浮かべました。

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(お宮の前で解体される舞台 主に素木の丸太で組まれています)

田中先生によると恒久的な舞台が登場するのは元文3年(1738)。「代々諸事書留」という古文書に、この年、各町が塗りを施し、箔をした(金具にだと思います)舞台を曳いた、と読める記述があるそうです。このころから舞台自体の装飾が進んでゆくのでしょうか。

宝永期(1704~10)には「古車払い下げ」の記録もあり、舞台の売却、更新システムも始まります。やがて我々の知る舞台(北大妻・野々宮神社舞台・寛政6年(1794)など)の時代に入って行くのでしょう。

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(講演終了後 謝辞を受ける田中先生)

田中先生は古文書の記録などから時代時代の祭礼の様子を洗い出し、その変化を追い、古い舞台の姿もイメージさせてくれました。そして講演の最後を、次のような言葉で締めくくりました。

『私の力は、ここまでです。』

歴史というものに正面から取り組み、地道な探求を重ねた人でなければ、言えない言葉だと思います。