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舞台保存会だより85 梓川横沢の舞台

梓川横沢の舞台
先月29日(3月29日)、旧梓川村横沢地区の舞台が修復竣工しました。この舞台とその修復について、松本深志舞台保存会としては何の関わりもないのですが、横沢舞台は嘗て深志神社氏子町会から買ってきた、という伝承もあり、そのことについて新しい事実も判明しましたので、ここで取り上げたいと思います。

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(竣工した横沢の舞台 横沢公民館前)

横沢は旧梓川村の倭に属し、倭橋から北に伸びる所謂「安曇広域農道」の「倭」信号付近、道路東側が概ねその地区になるようです。(西側は大妻)農道沿線は大型スーパーや店舗、食堂が軒を連ねて賑やかですが、一本脇へ入ると田んぼ畑の村の風景が広がります。農道沿いの百円ショップ店の手前を東へ入ると、左手に横沢神社の社叢があり、田を挟んで100メートルほど南に横沢公民館があります。29日の午前11時頃、訪ねてみると公民館の前庭に改修成ったばかりの舞台は置かれていました。

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(修復された舞台輪覆い部分) (二階屋根と兎ノ毛通しの彫刻「菊華」)

10人ほどの地区の人たちが、やや遠巻きに黒っぽい舞台の周りを取り巻いていました。なんだか少し困ったような雰囲気。竣工は嬉しいんだけど、あまりに美しい舞台に仕上がってしまって、さてどうしたものやら、と戸惑っている様子です。

実際に舞台はつい数日前に仕上がったばかり。濃い茶褐色に漆塗装された舞台は、深い光沢を放って内から光るように輝いています。春慶塗が艶やかに映えて潤むかのよう。触れれば指に着きそうです。写真を撮っても自分の姿や周囲の風景が舞台の木部に映り込みます。それほどきれい。以前の舞台を知っていれば、人々の戸惑いも理解できます。

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(修復前の横沢舞台 秋の例祭時に)

私も数年前にこの舞台を見ていますが、正直言って申し訳ありませんが、本当にボロボロのひどい舞台でした。屋根は透明ビニールで覆って雨露を凌いでいるし、木部はどこも角が取れて丸くなり、塗装は遠の昔に剝げ乾いて、果たして塗りがあったのかどうかも分らない、全体に白っぽい感じ。昨年、横沢の舞台が修復されることになったと聞いた時も、よくもまあ、あの舞台を直す気になったものだと、関係者の勇気に感心したものです。

その舞台がこのように素晴らしく修復されては唖然とするほかありません。昨日まで90歳だった老婆がとつぜん二十歳の生娘に生まれ変わり、どう扱ったらいいか分らない、横沢の人たちはそんな心境ではなかったでしょうか。

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(舞台側部 ビフォーアフター)

取り巻きの人の中には前の横沢第一区町会長の石原さんもいました。挨拶をして舞台を褒めると、やはりあんまり綺麗になってしまったので、これから祭りの飾りをどうしたらよいか悩んでいられるようでした。

横沢の舞台は後ろに舵棒がなく、代わりに葉のついた長い竹を取り付けます。すると舞台は箒星のような姿になり、これはこれでかっこいいのですが、竹はいきなり車体に縛り付けていました。今までは舞台の疵など気にする必要もありませんでしたから、それでよかったのでしょうが、これからはそうはいきません。かといって竹をやめるのも伝統に反しますから、実際悩ましいところです。きっとこれからは、保護材を当てたりして舞台が傷つかぬよう配慮しながら飾りつけをすることのなるのでしょう。

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(竹尾羽の付いた横沢舞台)

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(北大妻の舞台 天保8年まで松本の本町2丁目舞台でした)

さて、この横沢の舞台ですが、これまで地区の言い伝えによれば、松本の町から買ってきた舞台である、という伝えになっていたようです。以前『松本市舞台サミット』でアンケートを取った時にも、深志神社の氏子町から買った、との伝承と報告を受けていました。

横沢の舞台は隣町・北大妻の舞台(元松本本町2丁目舞台、天保8年に大妻村に売却)にもよく似て、江戸中期の深志舞台の形態を色濃く残していましたから、これはその伝承の通りであろうと思っていました。(舞台保存会だより67

『どこの町会から売られていったのだろう。修復の折に何か出てくればいいのだが…。』

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(横沢舞台の修復風景 清水の山田工務店にて)

昨年11月の初め、修復を始めた山田棟梁から、「墨書が出てきたで、見に来ましょ。」と連絡があり、早速工務店を訪ねました。墨書は二階屋根の裏板に書かれており、作者や年号もはっきりと記され、舞台制作に係る事実が判明しました。掲載の写真のとおりです。

棟上げは弘化2年(1845)7月、世話人4名、庄屋・上島吉左衛門以下、村の役員4名、大工3名と、別に塗師の名前も見えます。最後に『惣村中』と大書され、その脇に『横沢』と記されています。松本の町の舞台ではありません。この舞台が伝承とは違い、まさに横沢村の舞台として制作されたことがはっきりしました。

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(横沢舞台の墨書)

弘化は天保の次の年号です。天保8年(1837)隣の大妻村が舞台を手に入れ、新しい祭りが始まったのを見て、横沢村でも舞台祭りの機運が高まったのではないでしょうか。

今回墨書に出てきた人名の中で、庄屋さんや世話人さんの究明は横沢の方にお任せするとして、3名の大工名が注目されます。

「大工 後見 立川小平治 實信 倉品久蔵 益繁 立川喜兵衛 福武」

立川の名が出てきたのに驚きました。それも二人も。立川は実の姓でなく立川流の匠として名乗ったのであろうと思われます。

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(墨書 大工名を記した部分)

弘化年間は立川和四郎は富昌の時代で、その指揮の下、立川流はブランドを確立させ、信州の内外で盛んに社寺や山車の造立を請負っていました。職人の数も多く、ここに登場する立川小平治や喜兵衛もそうした匠の中の一人だったのではないかと推測されます。

ただ、関係機関で調べてもらったところ、この小平治・喜兵衛という名は、これまで知られてきた立川の匠の中にはなく、初めての名であるとのこと。立川の匠としての系譜は確認できませんでした。この時代立川某を名乗った匠はかなり多かったそうで、系列の地方弟子、というような人たちに当たるのかも知れません。

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(横沢舞台の彫刻 正面の「波千鳥」と持送りの「波」)

では立川小平治と喜兵衛が、どの程度立川と関係する匠であったのか?それは舞台を見ると推測できます。横沢の舞台には多くの彫刻が彫られています。その彫刻から見るに、この作者はまっとうな立川流の彫刻師であると推量できます。

まず、一階手摺部分の「波」の彫刻。波だけでまったくシンプルな彫刻ですが、これは立川の波だと思います。以前、間瀬恒祥先生から伺いましたが、波は立川流彫刻の基本中の基本で、社殿の虹梁に彫られる唐草文様と、波の曲線が、すべての彫刻の基礎線となるということでした。ダイナミックな竜の彫刻や、素晴らしい人物彫刻も、唐草と波の線がベースになっているといいます。(舞台保存会だより2940

その点この横沢舞台の波はどうでしょうか。私には派手さはなくとも極めて基本に忠実で、無駄のない、巧まざる美しい波のように思われます。メトロポリタンミュージアムにある尾形光琳の「波図屏風」も想起されますが如何でしょうか。

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(横沢舞台の手摺部分「波」の彫刻)

さらに舞台後部に中央を開けた左右の短い手摺部分がありますが、この枠をはみ出た彫刻の造形は前例があります。それは大町大黒町舞台の後部手摺です。大黒町舞台の彫刻は「波間に亀」の図で、波だけの横沢舞台に較べ充実した絵柄ですが、波が枠を乗り越えて漂う意匠は同じです。彫刻が枠をはみ出して描かれるというのは、絵画がカンヴァスを越えて壁にまで描かれているようなもので、大胆で素晴らしく斬新な演出です。

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(横沢舞台の後部手摺部分 人の出入りのために中央を開けてあるのである)

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(大町大黒町舞台の同じ部分)

立川富昌が彫刻を入れた大黒町舞台は、天保9年(1838)に松本本町2丁目舞台として建造されました。弘化2年の7年前です。小平治・喜兵衛はおそらく立川富昌の地方弟子で、和四郎から立川流彫刻の基礎を学び、或いは職人として舞台の建造にも参加し、ついでにその意匠も拝借したのではないでしょうか。

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(横沢舞台の二階勾欄下彫刻「竜」)

この他も横沢舞台の彫刻はかなり特徴的です。二階屋根前後の兎の毛通しの彫刻「菊華」も他で見たことのないものですが、二階勾欄下の台木に飾られた竜の彫刻は要注目です。

舞台の前後左右四面に六頭の龍が彫られています。竜自体はよくある普通の龍なのですが、一頭だけ変な竜がいます。左側後方の竜、よく見ると顔が変です。竜が象のような鼻をしているのです。分りますでしょうか?

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(竜モドキの彫刻)

これは竜ではありません。では何か?正直なところよく判りません。ただ、日光東照宮にヒントとなる霊獣がいます。その名は『息』とか。

東照宮の陽明門には竜と並んで竜のような霊獣が彫られています。「息」と謂うそうですが、「イキ」と訓むのか「ソク」と訓むのか、なぜ「息」なのか?それすら不明の謎の霊獣です。竜と非常によく似ているので、東照宮でも長く竜だと思っていたそうですが、実は別の生物であることが近年判明しました。

竜との違いは、息には髭がなく、唇の先端に鼻孔があることだそうで、陽明門の彫刻を見ると確かにそんな違いが認められますが、頭部しか彫られていませんから、胴部はまったく詳細不明。原産地も雌雄の別も有る無し分らぬ、これこそ空想上の霊獣と謂えましょう。

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(日光東照宮陽明門の斗栱部彫刻 上段が竜 下段が息)

東照宮の息と、横沢舞台の竜モドキは、顔かたちは似ていません。ただ、息の特徴は唇の先端に鼻孔があることで、これは象の鼻と同じです。象の長い鼻は実は上唇で、その先端に鼻孔が伸びているのです。つまり、象は長い鼻ではなく長い上唇を持ち、その先に鼻孔を有する動物なのです。するとこの竜モドキは「息」なのかも知れません。

それにしても作者はなぜ竜モドキ「息」を彫ったのか?何を意図したのでしょうか?

全く解りません。多分6頭も竜を彫るのに飽きてきて、最後の1頭は息にしたのでしょう。俺はこんな変った竜も知っているんだぞ、と。

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(「息」でよいのでしょうか?横沢舞台の奇妙な竜の彫刻 修復前)

正午近くになると雲行きが怪しくなりました。今年の春は一日の中で何度も天気が変わります。せっかくの竣工お披露目で雨に遭っては堪りません。舞台はそこにいた数人の村人に押されて、横沢神社境内の舞台庫へ曳かれてゆきました。

横沢神社の例祭は9月の末です。神社と公民館の間を往復するだけのようですが、どんな竹尾羽を取り付けるのか、見に行ってみたいと思います。

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(道祖神の石碑の前を通って舞台庫に向かう横沢舞台 正面は横沢神社の社叢)
(横沢舞台は後ろに舵棒がないので手で持ち上げて方向転換をしていました)