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舞台保存会だより110 東町2丁目舞台について

東町2丁目舞台について

東町2丁目舞台は大正7年(1918)の建造、この町の舞台としては三代目と伝えられます。

東町は1丁目から3丁目まであり、本町・中町とともに松本城下町を構成する親町ですが、女鳥羽川の北、北深志地区になりますので、深志神社の氏子ではありません。岡宮神社が産土様で、舞台はその例祭日、5月4日・5日に曳かれます。

平成13年に深志神社の舞台16台と六九町舞台とともに『松本城下町の舞台』として『松本市重要有形民俗文化財』に指定されました。

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(東町2丁目舞台)

あれは確か平成17年の夏の初め頃だったと思います。或る朝、神社の電話が鳴り受話器を取ると、ひび割れたような男性の声で、舞台保存会につないでほしい旨。自分が保存会の事務局であると伝えると、

「あんたらぁ、わしらを除け者にしてからにぃー!」

と、ひどく興奮した調子で訴えられました。

何のことか判らず、そうはいっても舞台に関わることのようなので慎重に訊いてみると、相手は東町2丁目の町会長のKさんという方で、松本深志舞台保存会が自分たちだけで舞台修理組織を作り、舞台修復事業を進めていることに腹を立てているようでした。何か誤解していると思いましたが、電話で話していても埒があきませんので、

「これからそちらに伺います。」と言って、すぐにK町会長さん宅を訪ねました。

K町会長さんの家は東町通りの真ん中どこらの小さな履物屋さんでした。恐る恐る扉を開けて声を掛けますと、奥から出て来たのは電話の声と等しく、眼光の鋭い、甚だ失礼ながら鬼瓦のような容貌の方で、店内の小さな応接に座らされ、緊張しながら話を聞きました。

当時、舞台保存会では新しい修理組織が整って平成の舞台修復事業が本格的に稼働し、飯田町1丁目舞台が無事修復工事を竣え、小池町舞台がいよいよ修復に取り掛かろうとしていたところでした。K町会長はそうしたことが新聞等で報じられるのを見、東町2丁目舞台は同じ市の文化財であるのに、どこからも声が掛からず、仲間外れにされた、と感じたらしいのです。そして、自分たちも舞台修理をしたい、傷んだ舞台をなんとかしたい、と思うにつけても焦燥が募り、あのような電話をすることになったもののようでした。

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(修復前の東町2丁目舞台)

松本深志舞台保存会は、設立当初には「深志神社舞台保存会」と称したごとく、天神祭りに集う16舞台とその舞台町会の組織で、他所の町の舞台は顧慮していません。東町や六九と交流はなく、特に気遣う義理もなし。しかし東町2丁目の場合、岡宮神社例祭に出場する舞台はこの一台だけで、組織を作ろうにもお仲間というものがいない。市の文化財に指定されたと言いながら、すべて単独で舞台の世話を考えなければならず、これはなかなか大変なことで、保存会への電話は、実は悲鳴のようなものだったのだと気づきました。

「わかりました。舞台の修理や保存会への加盟のこと、役員に諮ってみたいと思います。」

強面ながらK町会長は素朴で実直な方で、腹蔵なく話すうちに打ち解け、最後は笑顔であいさつを交わして店を後にました。通りに出て、ホッと溜息をついたのを覚えています。

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(町内を曳かれる東町2丁目舞台 修復後)

その後、役員会でこの件を取り上げると、「それは、いいんじゃないか。」ということで、東町の入会を認める方向となり、翌年の総会で会則を改定し、東町2丁目を準会員として保存会に迎え入れることとなりました。

そして、その舞台修復はさっそく平成19年度の修理計画にのぼり、同年7月から翌20年4月にかけて全面修復が行われました。入会以前から舞台修復に強い意欲があったため、最短の修復執行になったのだと思います。

修祓式
(修復前に行われた東町2丁目舞台の修祓式 岡宮神社にて)

思い返せば、修復以前の東町2丁目舞台は相当ひどい舞台でした。輪覆いが付いていて押し出しはよいのですが、なんとなく全体に歪んだ感じ。木部は乾燥していて艶というものがありません。というか、当初はこれが漆塗装を施した塗りの舞台とは思えませんでした。

深志舞台は上部が黒漆のロイロ塗り、下部は木目を生かした春慶塗です。黒漆は徐々に艶がなくなり、春慶は年数とともに色が浅くなり、木地を見せてくるのですが、そうはいっても全く色が飛んでしまうことはありません。しかし東町の舞台は、上部は黒く塗られているものの、下層はどう見ても素木と見えます。建造時、予算の都合か何かで塗れなかったのだろうと思っていました。ところが実は塗りが施されていたようで、修復が終わり濃く力強い春慶塗が施された舞台が出来上がってきた時は驚嘆しました。職人さんが何か間違えたのではないかと思ったほどです。(春慶は年とともに色が浅くなるので、最初はほとんど黒いほどに濃く色づけするのです)

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(修復前 東町2丁目舞台の各部)

それにしても手入れの仕方か、保管方法か、何がいけなかったか分かりませんが、あれほど漆の色が失せてしまうとは信じがたいことです。

舞台というものは草臥(クタビ)れてくると「襤褸(ボロ)」という言葉がいかにも相応しく、情けない姿になります。東町舞台もまさにボロ舞台でした。何の因果でこんなものを曳き回さなくてはならないのかと、町の人には同情し、哀れを覚えたものです。

しかし、東町2丁目の人たちは寧ろこの舞台に誇りを持っていたようで、腐っても鯛と謂うのか、俺らの舞台はちょっとしたものだ、と心の内で胸を反らしているようでした。

K町会長も私と話す内、ほろりとこんな言を洩らしました。

「へへへっ、ウチらの舞台は傷んでいるけど大きいし。よく見てみりゃ、おタクらの博労町の舞台とよく似ててね。この辺でも一二って云うような舞台セ。…へへへっ。」

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(輪覆いの部分 ビフォー) (アフター)

東町2丁目の舞台は実はそれほど大きいわけでなく、深志舞台としては中型ですが、そう見えるのは前輪に輪覆いが付いているためで、これが舞台の風格を高めサイズを大きく見せています。また彫刻の数が多くしかも見事で、車体からはみ出すほどに施されていることも、博労町舞台に比肩できると感じる所以でしょう。

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(修復後の舞台各部)

東町2丁目舞台は、大工棟梁・立石利喜太郎、彫刻・清水湧水という大正期の名工によって建造されています。立石利喜太郎は開智学校棟梁の立石清重の再従兄弟(ハトコ)。清水湧水は清水虎吉の嗣子です。それぞれ血統書付きの匠といったところでしょうか。このコンビは良かったようで、大正11年に伊勢町3丁目舞台の大改修も二人が中心となり行っています。東町2丁目舞台の評判が新たな仕事を呼んだのでしょう。(舞台保存会だより27)

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(東町2丁目舞台の彫刻)

中でも彫刻については、清水湧水が相当気合を入れてこの舞台彫刻に臨んでいることが判ります。『鳥の彫刻』の回で紹介した鷲の彫刻や、手摺り部分に施された鳥獣・花鳥彫刻は父・虎吉から受け継いだ伝統的様式を守りながらも、独自のテーマも加え、意欲的に湧水の世界を表現しています。(舞台保存会だより105

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(持送りの鷲の彫刻)

しかし何といっても力が入っているのは二階勾欄下の3面の彫刻でしょう。湧水は舞台で一番目立つこの個所に『天孫降臨・天の八衢(ヤチマタ)の場面』『八岐大蛇(ヤマタノオロチ)と闘う素戔嗚尊(スサノオノミコト)』『神武天皇埴安に諸神を祭る』という古事記題材の3場面を描いています。

父の清水虎吉は立川流の彫刻師として霊獣などの見事な作品を数多く残していますが、人物彫刻については十分に達者とは見えません。人物に関しては寧ろ子の湧水のほうが優れているのではないでしょうか。

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勾欄下 正面の彫刻『天孫降臨・天の八衢の場面』)

正面図『天孫降臨』。天の八衢に立つ猿田彦(サルタヒコ)に天鈿女(アメノウズメ)が近付く場面。簡単に解説しますと。

大国主命から国譲りを受けた天照大神は、皇孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に天壌無窮(テンジョウムキュウ)の神勅と稲穂を授け、高天原から葦原の中つ国(日本)に下らせます。ところがその途上、天の八衢に光輝く魁偉な神が立っている。その神は鼻が異様に高く背も高い、眼は鏡の如く爛々として、瓊瓊杵尊に従う部神たちは近付くこともできない。そこで『天の岩戸』でも活躍した天鈿女命を差し向けて問わせると、その神は猿田彦と名乗る国つ神で、天孫が天下ると聞き、導きをするため迎え待っていたのであると。そこで天鈿女と猿田彦は鹵簿(ロボ)を先導し、無事に天孫降臨を果たします。(この二神はのちに夫婦となります)

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(天鈿女命) (猿田彦命)

猿田彦の表情がどこかユーモラスです。(ふつうはもっと怖い顔つきで描かれるものですが)

それもそのはず、天孫族の先兵・天鈿女は豊胸のオカメ顔(グラマー美人)で、猿田彦はすでにその心を蕩かされているのでしょう。

書紀ではこの時の鈿女を『その胸乳を露わにかきたて、裳帯を臍の下に抑垂れ、あざ笑いて向ひ立つ。』と描いていますから、まったくの色仕掛けです。男神を派遣していたら喧嘩になっていたかも知れず、日本では神代から困ったときは女性の色気が平和な解決をもたらすようです。

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(勾欄下 左側面の彫刻『八岐大蛇と闘う素戔嗚尊』)

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(ヤマタノオロチ)

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(素戔嗚尊) (櫛稲田姫)

左側の『素戔嗚尊』の場面も見事です。画面を説明する必要はないでしょう。

オロチとスサノオのスピード感が素晴らしい。巫女として櫛稲田姫が修祓する様も趣深い。形式的な絵柄でなく近代的な躍動感あふれる構図で、迫力の画面に圧倒されます。

スサノオは本邦最高の英雄であり、随分いろんな描き方をされますが、勇者として描かれたこのスサノオは、十分に説得力のある姿です。

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(勾欄下 右側面の彫刻『神武天皇 埴安に諸神を祭る』)

右側面の『神武天皇』の場面は一転して穏やかな画面。神武東征の最後、多くの敵を退けて大和の地に落ち着いた神武は、天の香久山の埴土を取って多くの平瓦(皿)を造り(その平瓦に供え物を盛って)自ら神々を祭りました。成功裏に遠征を遂げることができたことへの感謝と、新たな国の安寧を祈ったのでしょう。

そして翌年、畝傍山の東南、橿原の地に都を営みます。日本国の始まりです。

祭りする神武天皇とその部神たちは厳かな様子で、北欧神話の一場面を見るかのようです。

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(神々を祭る神武天皇) (参列する神々たち)