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舞台保存会だより111 東町2丁目舞台の由緒

東町2丁目舞台の由緒
東町2丁目の舞台は前回紹介したとおり大正7年(1918)の建造で、製作者もはっきりしている由緒の確かな舞台です。写真もいくつか残っており、舞台自体の変遷をたどることができます。

この写真は大正7年の竣工時の記念写真とされます。

大正8〜9年
(大正7年 竣工時の東町2丁目舞台 昔の写真はなぜこれほどきれいなのでしょう?)

いくつか注目すべき点があります。まず白黒写真なので色合いまでは分かりませんが、きちんと下部まで塗装されているように見えること。後年はほとんど色が飛んで素木舞台のように見えましたが、もともと重厚な漆塗り舞台だったことがはっきり分ります。

それと左側面の勾欄下に彫刻が付いていません。ここには神武天皇 諸神を祀り国の安泰を祈る』の彫刻がある筈なのですが、どうしたことでしょうか。恐らく彫刻が舞台の竣工に間に合わず、後付けになったのでしょう。舞台彫刻は必ずしも本体と一体化はしておらず、組み立てでも最後に取り付けられるのが普通です。神武天皇の彫刻は新しい概念の彫刻でしたから構想から仕上げまでに時間がかかり、ついに竣工式に間に合わなかったと、そういう事情ではないかと推量します。芸術作者にはありがちなことですし、作品の出来栄えを見れば納得もいくというものです。

東町2丁目舞台 009
(勾欄下彫刻 『神武天皇 諸神を祀り国の安泰を祈る』 修復前)

そして、最も注目すべきは二階屋根が付いていないことです。東町2丁目舞台は大正の竣工時、屋根のない野天舞台でした。

写真で見るとこの舞台は、二階屋根はないものの柱はあり、この柱に注連縄を回して、恰も地鎮祭の祭場のように飾っています。子どもたちがたくさん乗っていますが、舞台において二階は神の座とされており、神が降臨する清らかな場所として設えられているのではないかと思われます。

これまでも屡々考察してきましたが、明治初期に松本の舞台は大きく形を変え、二階屋根のない簡素な舞台が曳かれるようになりました。その理由は様々に考えられますが、一つには神の依り代(ヨリシロ)としての舞台の機能が強調されたからではないか。依り代は松などの木が舞台の中に建てられることが多く、すると二階屋根は邪魔な設備になります。天下る神の依り代の上に架かる屋根など取ってしまえと。

半田亀崎町山車0021大正8〜9年部分
(松を建てた中山・和泉神社のお船) (記念写真の二階部分)

山車や舞台は祭りの『賑わいもの』としての性格と、『神の依り代』としての機能と、二つの意味づけがあると考えられますが、どちらを強調するかで形態が変わってきます。東町2丁目舞台は、彫刻など舞台装飾は充実させて賑わいの舞台を演出させながらも、二階部分は神の座としての依り代舞台を強調した造りとしたのではないでしょうか。

但し明治の中盤以降、天神の深志舞台はすべて屋根付き舞台を製作しており、その点、東町2丁目舞台はやや特殊な形態を選択したことになります。比較的降雨の少ない5月の祭礼がこの形を択ばせたのかも知れませんが、やはり不自由もあったはずです。

昭和10年3月
(昭和10年3月撮影とされる舞台 子供たちは現在存命なら90歳前後でしょうか)

この写真は昭和10年のもの。屋根が付いています。

んっ…?しかし、これは少し変な屋根ですね。嶺に鬼もなく、裾も怪しい。どうやら仮設の屋根のようです。多分カンヴァス地の仮屋根でしょう。木で簡単な枠を作り、その上に深志舞台お得意の雨除け幌を被せた式のものと思われます。いつ頃からか分かりませんが、やはり屋根のないのは不都合で、仮設の屋根を付けていたのでしょう。

昭和24年10月
(昭和24年3月舞台屋根竣工記念写真 以上記録写真提供・㈱ナベリン・ティー・ブイ)

そして昭和24年の記念写真。この年、東町2丁目舞台は大改修を行い、正式の屋根が取り付けられました。現在に至る舞台の形態が完成したのです。

この時の改修は大規模なものだったらしく、天井の板裏に製作者の墨書も残っています。

2017-09-26
(昭和24年の墨書と 今回平成20年大改修時の寄付者芳名)

『昭和二拾四年拾月一日新調』とあり、この新調は屋根のことだと思いますが、その下に『東町二丁目中』として5人の名前が見えます。

『委員長 新村深見』

現在、東町2丁目町会長の新村昌弘さんのお祖父さんあたりでしょうか。

『大工棟梁 立石利喜太郎 副棟梁 立石甲子雄』

およそ30年を経て立石利喜太郎が再び棟梁をしている。立石甲子雄はその子か、或いは立石清重の所縁の大工でしょう。

『彫刻師 清水湧水 塗師 上條菊次郎』

ここでも清水湧水の名があり、昭和24年に彫刻仕事をしているということになりますが、それらしい彫刻は確認できません。推測ですが、昭和24年に改修の仕事をしたのは立石甲子雄と塗師の上條菊次郎だけだったのではないでしょうか。立石利喜太郎と清水湧水はもともとの制作者として墨書に加えられたのではないか、とも考えられます。

記念写真には大変多くの人が写っており、この舞台の竣工が町民全体から祝われたことが判ります。子どももたくさんいます。舞台は町の絆、皆の誇り、象徴だったのでしょう。

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(東町2丁目舞台 大正7年(1918)から数えて来年でちょうど満百歳となる)

東町2丁目舞台はこれが三代目の舞台で、この前の二代目の舞台は明治45年に火事により焼失したと伝えられます。どんな舞台だったのでしょうか。明治初期の建造と考えられますので簡易型舞台だったか。しかし一部彫刻が焼け残り、それが現在の舞台に引き継がれていますから、装飾のしっかりした本格舞台だったとも推測されます。(舞台保存会だより105

いずれにせよ既に失われた舞台、空想を逞しく想像するのみです。

一方、初代の舞台は現存しています。塩尻の阿礼神社の祭礼で曳かれる『上町舞台』がそれです。

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(塩尻市塩尻町の『上町舞台』)

阿礼神社の例祭は7月の半ばに斎行され、神輿渡御と舞台が7台出場する賑やかな祭りです。7台の舞台は深志舞台よりひと回り大きく、曳き回しも多くの若者が取り付き屋根の上でおんべを振ったりして実に派手やか。挙母祭を思わせます。

深志舞台の曳き回しは、中高年とご婦人方が主体ですから、既に同日の論ではありません。

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(阿礼神社例祭の舞台行事)

それは兎も角、この上町舞台は立川流の彫刻を積載する舞台として、その筋では著名な舞台です。二階に関羽の人形を積載しており、これも印象的です。ただ車輪が前後とも内輪式で、これは深志舞台にはない形式ですから、或いは塩尻に行ってから改造されたのではないか。阿礼神社の舞台は基本的に前後輪とも内輪式のようです。

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(上町舞台の人形「関羽」) (上町舞台の下部・台車部分)

上町舞台は明治10年(1877)に松本東町2丁目から塩尻の上町に売却されています。購入価格は伝承で五百円ほどと伝えられているそうです。明治21年に大町大黒町に売られた元松本本町2丁目舞台も500円が売価でしたから、適宜な価格なのでしょう。

作者は立川流の立木音四郎種清と伝えられてきました。ところが近年、解体修理の際に一階の庇となっている小屋根の垂木の裏から、上棟式や制作に関わる人物を記した墨書が現れ、この舞台の由緒が判明しました。

それによれば、この舞台は嘉永7年7月(1854)より寄付を募り、安政2年2月(1855)に上棟。竣工は分かりませんが、安政2年か3年でよいのでしょう。

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(阿礼神社祭礼で 上町舞台の曳行風景)

大工棟梁は『信州松本東町中丁住人 大工 立石清八郎』とあり、この立石清八郎は開智学校の棟梁・立石清重の兄になる人物だそうです。立石清重は『文政12年(1829)に松本市北深志東町に、父清三郎の次男として生まれた。』(郡誌・人名編)とされていますから、清八郎が長男だったと思われます。立石家は代々松本藩の用も勤める棟梁の家柄でした。

『東町中丁住人』とありますから、立石家は東町2丁目のまさに地元で、それゆえ舞台の建築にも携わったのでしょう。焼失した二代目舞台のことは分かりませんが、どうやら東町2丁目舞台は代々立石家の棟梁によって建造され、手を加えられたようです。

ただ彫刻は明らかに立木音四郎です。二階勾欄下、二十四孝の彫刻の中に刻銘が記されています。

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(上町舞台の二階勾欄下彫刻「二十四孝」)

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(二十四孝図『楊香』と立木種清の刻銘)

立木音四郎種清(天保3年・1832~明治41年・1908)は下諏訪の生まれ。立川和四郎富昌の弟子で、宗家ではありませんが立川流の柱石たる匠でした。建築にも彫刻にも優れ、社寺建築を請け負うことのできた最後の立川流棟梁であったとされます。代表作は駒ケ根市の大御食神社本殿、塩尻市永福寺山門など。知多の山車も幾つか手掛けています。

上町舞台の二階勾欄下の彫刻「二十四孝」は、刻銘もあり立木音四郎の作で間違いありません。ただし他の彫刻は分からない。彫の印象は別の匠の手になるものかと思われます。

問題はこの彫刻がいつ彫られたかで、東町で安政2年の竣工時に既に彫られていたのか、あるいは明治10年以降、塩尻の上町舞台となってから後付けで彫られたのか。些か専門的な問題ですが、由緒として重要な問題です。

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(永福寺本堂) (永福寺旭観音堂)

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(観音堂の彫刻)

個人的な推測としては後者、塩尻に行ってから取り付けられたものではないかと考えます。というのは、立木音四郎は上町町内の永福寺に縁があるからです。彼が若い頃、立川富昌のもとで携わった最初の大きな仕事が永福寺の旭観音堂の建築でした。(安政2年・1855~、恰も東町2丁目舞台建造の年)ところがこの工事の最中、師匠の富昌は事故で大怪我を負い、それが因で翌年亡くなります。それでも観音堂は無事に完成し、現在にその見事な堂宇を伝えていますが、音四郎には生涯忘れられない現場となったことでしょう。

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(永福寺山門(仁王門))

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(仁王門に施された木鼻彫刻)

それからちょうど40年後、明治29年(1896)に永福寺仁王門(山門)が立木音四郎棟梁のもとに建立されます。(音四郎64歳)この仁王門は音四郎最後の大仕事となりました。

永福寺仁王門は実に凛然としたたたずまいで、訪れる者の心を打ちます。木鼻の獅子や象の彫刻は、刀痕も鋭く鮮やかな仕上がりで、これがすでに還暦を過ぎた老境の匠の仕事とは思えません。立川流最後の輝きともいうのでしょうか。

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(永福寺参道と上町舞台庫 舞台庫は参道のすぐ脇に建ちます)