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舞台保存会だより116 村上鉄堂の『群猿欄間彫刻』

村上鉄堂の『群猿欄間彫刻』

前回のたよりで紹介できなかった、村上鉄堂の代表作『群猿欄間彫刻』について記したいと思います。

この彫刻は、小松市本折町の「本折日吉神社」の拝殿に飾られています。多くの猿が松の木に群れ集うさまを描いたこの欄間彫刻は、村上鉄堂晩年の傑作であり代表作とされます。

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(小松市本折町の本折日吉神社)

その由来については以前のたよりで簡略に記しました。(舞台保存会だより103)改めて紹介しますと、

大正7年(1917)、村上鉄堂は本折日吉神社から猿を題材にした欄間彫刻の制作を依頼されました。すると彼はさっそく2匹の猿を買い求め、5坪ほどの自宅の庭を金網で囲ってそこに放します。狭い家のこと、屋内には猿の臭いが立ち込め、家人は辟易しますが、鉄堂は気にする風もなく、猿の姿態を観察し彫刻の構想を練ったといいます。いかにも芸術家らしいエピソードです。

時に鉄堂50歳。間もなく4面の群猿図を完成させます。しかし欄間はなお8面あり、これも依頼されていたようですが果たせませんでした。村上鉄堂は大正9年に52歳で逝去しています。すでに最晩年でおそらく病もあり、心を残しながらも鑿を擱かなくてはならなかったのでしょう。したがってこの彫刻は彼の遺作ということになります。

残り8面の欄間は彼の弟子たちにより昭和14年(1939)までに完成し嵌められ、現在の拝殿はまさに猿の群れ犇めく異風の堂となっています。

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(本折日吉神社の参道と境内 鳥居はやはり山王鳥居)

5月13日午後、本折日吉神社を訪ねました。やや町はずれかと思われる場所ですが、町屋の間を細長い参道で入る、由緒古そうなお宮です。社名の頭につく「本折(モトオリ)」は地名だそうで、本折町にある日吉神社ということです。

それにしても本日まさに例祭日。境内はごった返しているかと思いきや、意外に静かで、車も普通に駐車場に入れました。

境内に入ると「見ざる聞かざる言わざる」の三猿や、幣束を肩に担いだ猿の人形が飾られています。日吉神社ということなのでしょう。

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(境内拝殿前で参拝者を迎える猿の像 まあ何と申しましょうか…)

それにしても例祭というのに露店もなく参拝者も疎らです。本当にここだよな、と不安な心持で社務所に声を掛けますと、留守番らしい女性の方が、

「宮司は神輿に従いて出ております。話は伺っておりますのでどうぞ拝殿に上がって自由にご覧ください。」とのこと。宮司さんお一人のお宮のようです。そういうことならと、拝殿に上がり殿内を拝見しました。

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(日吉神社の拝殿内)

当然このことながら欄間ですから拝殿内の見上げる位置に群猿彫刻は設置されていました。殿内はやや暗いため眼が慣れるのに暫く時間を要しましたが、やがて細部まで彫刻の表情が見えてくると、その見事な彫と表現に驚倒しました。これは大変な作品だと感じ、強い興奮を覚えました。これまでも社寺彫刻は狭い範囲ながらいろいろ見てきたつもりでしたが、このような彫刻には出会ったことがなく、何と表現してよいのか判りませんが、とにかく非常な作品だと感じました。

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(日吉神社拝殿内の群猿欄間彫刻)

欄間は幅一間の大きさで、拝殿中央の左右に二枚、奥にもう一対掲げられています。それぞれにニホンザルが5,6匹ほど、さまざまなポーズで松の樹間に屯している。それだけの彫刻です。しかし、一匹一匹にサルらしい姿態の自然な存在感があり、観察の確かさを感じさせます。そして猿たちの表情が実に深い。同じ霊長類とは云え猿の表情というのはこれほど人間に近く深いものなのか。ほとんど哲学的とさえ感じられる彼らの表情に愕然としました。

これは近代彫刻の表現であり、おそらくは村上鉄堂の自画像とも言える作品ではないかと感じました。

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(群猿彫刻に描かれる猿)

村上九郎作・鉄堂のお孫さんにあたる村上邦夫さんは、最近上梓された九郎作の生涯記に『近代日本の黎明期を生きた、二つの顔を持つ彫刻師』というサブタイトルを掲げています。象徴的で村上鉄堂という彫刻師を端的に表現したタイトルだと思います。

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(村上九郎作生涯記の表紙) (村上九郎作・鉄堂)

村上九郎作という人は、慶応3年(1867)に生まれ、大正9年(1920)に逝去していますからまさに明治人で、近代の息吹の中に生まれ、その成長とともに生涯を送った人だと思います。近世が続いていたら彼は代々続く彫刻師の一宗匠として、北陸の社寺彫刻の名匠として名を残した人だったでしょう。しかし明治という時代はそういう職業・生き方を許さなかった。近代化に資するということが明治の職業人の条件でした。

維新という政治革命をなし遂げ、近代化に走り出した明治ですが、近代化に必要な資金を得るための産業・資材というものは殆どなかった。鉱物資源は江戸初期に掘り尽くして既に無く、海外に売ることのできた産物は生糸だけだったといいます。養蚕による生糸生産は江戸時代が育成した競争力のある唯一の輸出産業で、日本の近代化を支えました。知識も産業機械も大砲や軍艦もすべて生糸が紡ぎ出した。県歌「信濃の国」に謳われる如く、まさに『細きよすがも軽ろからぬ~』で、細い絹糸が国の命をつなぎました。

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(群猿欄間彫刻 村上鉄堂の刻銘)

生糸が輸出産業として優れていたのは、ほとんどゼロに近い原材料費と圧倒的な低コストの、しかも質の高い労働力に恵まれていたからですが、それにしても糸より他に売るものはないのか、政府も考えたらしい。そこで目を付けたのが、村上九郎作のように優れた技を持った技術者の手になる日本の工芸作品でした。

当時盛んだった世界産業博覧会に出品すると、日本の美術工芸品はすこぶる評判がよい。ジャポニズムという言葉まで生まれたように、日本の絵画から工芸品、根付のようなものまでが、飛ぶように買われ海を渡りました。シカゴ万博に出品された村上九郎作の彫刻もたいへんな評判を呼んだといいます。工業製品はとても敵わないけれど、職人の手になる緻密な工芸製品なら売れる。

村上九郎作は明治の工芸産業育成に携わった師・納富介次郎の勧めで工業学校の教師となり、教育の場で工芸人材の指導育成にあたります。更には山中商会という貿易商社の美術・技術指導者となり、輸出用家具のデザイン・製作に携わっています。九郎作の壮年期は工業学校教師と輸出用家具製作及び指導という実務に費やされたようです。

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(鉄堂の弟子・米島岳堂と吉田楳堂による群猿図)

村上九郎作という近代黎明期を生きた彫刻師のこれが一面。そしてもう一面が本折日吉神社の群猿欄間彫刻に結晶した木彫芸術家としての一面なのでしょう。

群猿欄間彫刻について、美術史研究家の中には日本のアールヌーヴォーと評価する人もいるそうです。私にはアールヌーヴォーの概念自体がよく解りませんので、そうなのかと思うばかりですが、この彫刻作品が古来の伝統的意匠を用いながら、近代的なリアリズムに貫かれた作品であることは強く感じます。

例えば猿たちが拠る松の木や松葉の表現。これは明らかに伝統的デザインで装飾的です。一方その松の中に暮らす猿たちは実に写実的で、手足の動きも実際的であるばかりでなく、一匹一匹が内省的な存在感を湛えている。その存在感が実に近代的です。これは神社の欄間彫刻だけど、近代彫刻なのだと感じさせます。

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(村上鉄堂による群猿彫刻)

近代彫刻の猿と言えば、教科書にも載っている高村光雲の『老猿』を思い出しますが、あの老いた猿は光雲その人のように見えます。高村光雲とはこの老猿のような魂の持ち主なのだと感じます。日吉神社の群猿を見ていると、やはり猿たちが村上鉄堂その人の魂を宿しているように思えました。

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(猿の表情)

村上九郎作・鉄堂は小松の彫刻師の家に生まれ、十分な才能もあり、子供のころから彫刻師として生きることを己の道と考えていたと思われます。しかし家庭の事情や新しい時代の波の中で、彼は工芸教育者、また産業工芸家としての生活を送ることとなった。それはそれで、充実した人生だったと思いますが、天性の作家としての鉄堂の魂は、常に北の海のように波立っていたのではないか。

工芸作ではなく父祖の道たる彫刻師として、然るべき場所に自分の最高の表現を刻みたい。自分の技量のすべてを尽くして、或る存在を表現したい。その思いが結実したのがこの『群猿欄間彫刻』ではないか。

日吉神社拝殿で猿たちの姿を振り仰ぎながら、そんな想像を巡らして感慨に浸りました。

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(北國新聞の記事 石川では古川竜笛台の彫刻が鉄堂作と認知され始めているようです)