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舞台保存会だより131 荒町お船の彫刻 啄斎と虎吉

荒町お船の彫刻 啄斎と虎吉

「荒町のお船の彫刻には銘がないね。」
一昨年の11月でしたが、山田工務店の山田棟梁からそう教えられた時、胸の奥で響くものがありました。棟梁のことばが私には、
『この彫刻が清水虎吉のだという証拠はないね。』
と言っているように聞こえたのです。引いては、『これは、虎吉の作じゃないよ。』と言っているようにも聞こえました。それは私にとって腑に落ちることばでした。

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(山田棟梁 松本建労会館にて)

須々岐水神社への祭礼奉仕もあって、彼これ20年来毎年山辺のお船を見続けてきましたが、数あるお船の中でも荒町のお船とその彫刻は殊に見事なものです。中でも彫刻については湯の原町お船と双璧と言ってよいのではないかと思います。

里山辺九艘のお船の彫刻作者は、立川富昌を筆頭に、富重、富種兄弟、冨保(富昌の弟)の名前もあります。明治に入ると富種の娘・湘蘭、地元の原田蒼渓、清水虎吉とその息子たち清水湧水・島太郎と、立川流彫刻師のオンパレード。錚々たる面々の名が並びます。

知多や三河などに立川流彫刻を飾る山車祭りはいくつもありますが、これほど満遍なく立川の作者がひしめく山車祭りは他にないでしょう。中でも立川冨保、湘蘭女史の作品などは山車彫刻という枠を外しても稀少で、極めて貴重な作品と言えます。

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(薄町のお船とその彫刻「須佐之男命」湘蘭作) (藤井のお船とその彫刻「七福神」冨保作)

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そうした中に地元の立川流作者・清水虎吉の名があるのは当然と言えば当然のことですが、それが確かに虎吉の作かということは、一度立ち止まって検討してみなくてはなりません。

実は以前から荒町の彫刻について、これが本当に清水虎吉の手になるものなのか、なんとなく疑問を感じていました。ほかの虎吉の作品と比べて、彫の質、描写力、画面構成がまったく違うのです。はっきり言って上手過ぎる、巧すぎる。
『虎吉にこれほどの腕があったのだろうか。』と、失礼ながらずっと感じていました。

清水虎吉は竜や玄武(霊亀)など霊獣彫刻には極めて達者で、立川の師匠たちにも引けを取りません。しかし人物彫刻にはいま一つのところがあります。二十四孝など好きな題材だったらしく何度も彫っていますが、師富種のものに較べると雲泥の差。人間というより人形に近く感じられてしまいます。逆に言うなら富種の人物彫刻はそれほど凄い。

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(一日市場舞台の彫刻 二十四孝『唐夫人』と『剡子』)

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(小池町舞台の歴史画彫刻「業平と都鳥」「楠父子桜井の別れ」)

立川の彫刻師は先ず雲や植物などの彫刻から始めて、ねずみや兎などの小動物を彫ります。次に虎や牛などの大型獣を任され、次に漸く霊獣彫刻で竜や獅子など。そして人物彫刻は最も高度な技術を要する匠技として、師匠格でないと彫ることが出来なかったといいます。

個人的な推測ですが、虎吉は実は霊獣までの作者で、立川の中で人物彫刻は許されていなかったのではないでしょうか?しかし虎吉が活躍する明治時代は、富重・富種の死去により立川本流がほぼ崩壊し、自立した傍流の匠たちが比較的自由に制作を行うことができた時代でした。そうした流れの中で虎吉も二十四孝や蝦蟇・鉄拐図などを彫り、富種の弟子として恰も免許皆伝の匠の如く振舞うことができたのではないか。

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(小池町舞台の持送り部分 竜の彫刻)

いずれにせよ私にはこの彫刻の作者が清水虎吉とは思えません。虎吉にしてはあまりに上手すぎる。…では、真の作者は誰なのか?

清水虎吉と同時代の他の彫刻師を思い浮かべてみました。例えば原田蒼渓、また湘蘭女史。しかし彼らの作品は他所のお船にありますし、それらと見比べても荒町の彫刻は格段にレベルが高い。彼らではない。立川富淳、或いは尚富はどうか。…いや、ないでしょう…。

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(須々岐水神社拝殿前で 薄町お船のパフォーマンス)

昨年の5月5日、例年の如く祭典奉仕のため須々岐水神社に伺いました。昼頃着くと明るい社叢の中お船が一列に弧を描いて泊まり、周りの草地で直会が始まっています。須々岐水神社例祭の最も祭礼らしい風景です。いつもなら薄町や湯の原町のお船から順に見てゆくところですが、今年は我慢して、真っすぐ荒町お船に向かいました。

改修成った荒町のお船は、二階勾欄の朱が鮮やかです。本体も清々しく塗り替えられて、その中に素木の彫刻が白く浮き立つばかりでした。

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(荒町のお船)

あらためて大盤彫刻を拝見します。刀痕を鮮やかに残した彫は、近代的な印象。画面の隅々まで細かく彫を入れ、まるで細密画のようです。普通は中心となる人物に焦点を当て、周囲は適当にボカしてテーマを強調するものですが、この大盤彫刻はすべての隅までピントを合わせて、どこまでも精密な画面を作り上げています。背景の樹や花も重層立体的に彫られ、恰も3D画面を見るよう。近くで見始めると前を離れられなくなってしまいます。

こういう表現と、このような彫ができる匠を私は二人しか知りません。宮坂常蔵昌敬と立川専四郎富種です。

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(荒町お船の大盤彫刻)

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(四賀・保福寺町舞台の大盤彫刻「桜井の別れ」「児島高徳」清水虎吉作)

保福寺舞台

さらに注目すべきは縁取り彫刻です。これは山辺のお船の大盤彫刻の周りに、ちょうど絵画の額縁飾りのように配される彫刻で、湯の原町お船では竜・麒麟・兎などでした。荒町お船のそれは人物彫刻です。僧侶や仙人、中国文人らしい人物たち彫像ですが、これが実に巧い。大きさは人の指ほどのミニチュアサイズですが、なんとも云えぬ見事さ。まるで妖精がそのまま彫刻となって張り付いたかのようです。そしてその中の一対は風神雷神の図です。

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(荒町お船の縁取り彫刻)

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(縁取り彫刻『風神雷神図』)

この風神雷神図は立川流独自のデザインで、但し三代立川富重からの図像とされます。即ち二代富昌の時代にはなく、富重と富種が好んで彫りました。彼らのオリジナルです。そして他の匠にはほとんど作例ナシ。清水虎吉も知る限り風神雷神を彫ってはいません。

斯くして荒町お船の大盤彫刻の作者は明らかになります。啄斎・立川専四郎富種です。

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(立川専四郎富種)

立川専四郎富種は文化14年(1817)立川和四郎富昌の次男として諏訪に生まれます。2歳年上で三代和四郎を襲名する兄富重とともに、幕末から明治にかけての立川流を支えました。富重が棟梁として主に建築を担ったのに対して、富種は彫刻専門で立川のブランドを高めました。父富昌は富種を鍾愛し、東海や近畿など各地の現場を連れ回ったといいます。

富種は圧倒的な技術を持つ匠でしたが、単に技巧に優れているだけでなく人間に対する深い洞察力があり、その作品は人物彫刻の神髄を極めた感があります。

代表作は里山辺・湯の原町お船彫刻(舞台保存会だより34

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(湯の原町お船の大盤彫刻 『楊香』と『剡子』

中野市の常楽寺では仁王門と仁王を造り、本堂欄間に讃嘆すべき二十四孝図を残しました。(舞台保存会だより36

人物彫刻は立川の匠だけでなくさまざまな流派で彫られていますが、人間の本性に迫るような彫刻は決して多くありません。文学・小説の世界に例えるなら、バルザックもいれば二流三流の大衆作家も共に生息しており、描かれる人間の深度にもおのずから大きな差があります。富種がバルザックなら、虎吉はさしずめ菊池寛ぐらいでしょうか。

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(常楽寺の欄間彫刻『董永』と『老萊子』)

それにしてもどうして富種の彫刻が清水虎吉の作として伝わってしまったのか?これが大きな疑問です。荒町町会のお船修復記念誌を見ると、一部に『立川富種(啄斎)の作である。』という記述も見えるものの、大盤彫刻個々については『立川流の彫刻師立川富種の弟子立川東渓(清水虎吉)作』と一々記述しています。清水虎吉を作者としつつも富種(啄斎)が関わっていることを暗示しているようにも思えます。何か言い伝えがあったのかも知れません。

ここはひとつ四流大衆作家になったつもりで、小説仕立てで推理してみたいと思います。山本周五郎風でやってみましょうか。

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(荒町お船の彫刻)

『明治13年二月の末、漸く春の気配が漂い始めた朝、大和虎吉は上諏訪角間町にある師匠の宅を訪ねた。師とは名人と呼ばれる立川流の彫刻師・専四郎富種、号啄斎である。

諏訪の朝の気は未だ硬いが、軒先の古梅には白梅が二、三輪ほころび始めていた。

「師匠、お呼びでしょうか。」

作業場のすぐ隣に付けられた接客用の座敷の前で声を掛けると、

「虎吉か、入れ。」と、師の返事が返ってきた。

障子を開けて部屋に入ると、啄斎は部屋の中ほどに文机を置いてこちら向きに座り、短冊になにか書きつけているところだった。師の背後に四角い大きな彫刻が立てかけて並べられている。それは昨年から啄斎が時間をかけて彫り上げていた里山辺村荒町のお船の彫刻であった。昨日まで作業場にあって仕上げの鑿を入れていたが、今朝座敷にあげたらしい。

朝日を受けたその彫刻を見て虎吉は思わず息を呑んだ。一瞬の中の人物が動いているように見えたのである。勝手に動き出し、枠から抜けて走り去るのではないかと。

「今朝、眼入れをした。」

師は筆を走らせながら言った。

彫刻の仕上げに目と口に墨と紅を入れる。素木で彫られ白眼のままだった彫刻に眼が入ると忽ち生気を帯び、彫り物が生命と性格を宿すのである。これまでも何度も見てきたことだが、虎吉は強い力で胸を押されるような思いをしつつ、並べられた彫刻に見入っていた。

「催促も来ている。早く届けてやりたい。すまぬが箱を作って梱包をしてくれぬか。」

「わかりました。箱には何か書きますか?」

「いや、書かぬ。そのまま養生して詰めてくれればいい。」

「運ぶのは何時に?」

「三月に入ったら早々にと、伝えてある。あとで小和田の神官様を訪ねて日を選んでもらってきてくれ。」

「承知しました。山辺には師匠が行かれますか?」

「いや、わしは行かぬ。お前が行ってくれ。寸法もお前が見てきているから取り付けは心得ておろう。和四郎殿に頼んで誰か若いものを付けさせる。」

そう言うと啄斎は文机から目を上げ、筆を擱いて何事か考えるように腕組みをした。

啄斎は当年63歳になる。髪は白く、眉間の皺も深くなったが眼眸の鋭さは昔と変わらない。虎吉は師の思案を邪魔しないよう、近くの彫刻に眼を向けた。

その彫刻には馬に乗った直垂姿の武士と女が彫られていた。瞳が画かれ、唇に鮮やかな紅がのった女はぞくりとするほど美しい。とても彫り物とは思えない。遊女を思わせる艶めかしいその姿に見入って、虎吉は思わず生唾を呑み込んだ。

『師匠はどんな人間でも知っている。こんな女もどうしてこう描けるのだろう。』

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その時虎吉の視線を横切るものがあった。いつの間にか脇の襖が開いて、啄斎の娘松代が入ってきていた。松代は父の膝元に茶を置くと、虎吉には一瞥もくれず無言のままついっと出て行った。

「この彫刻には銘を打たなんだ。」

啄斎は腕組みをしたまま虚空を見るようにして呟くように言った。それから松代が持ってきた茶碗を執り一口すすると、今度は虎吉の方を見て言葉を続けた。

「先月、山の神の後、主の親父さまと荒町の世話人殿が見えたことは存じておろう?」

「はい、その節は事前の知らせもなく突然の来訪で失礼しました。」

「仕事の進み具合を見に来たらしい。今年の春祭りに間に合うか、気が急くようだ。作業場の彫刻を見たら安心したのだろう。機嫌よく帰っていった。『これは虎吉が彫ったものだ』と言ったら、二人とも目を丸くして驚いておった。」

「師匠、それはとんだ戯れを。素人は本気にします。」

「いいではないか。親父さまは顔を赤くしておったぞ。」

啄斎はいたずらっぽく笑いを浮かべて弟子を見た。虎吉は憤懣で茹でエビのように顔を真っ赤に紅潮させている。啄斎はそんな愛弟子の興奮を楽しんでから、ことばを継いだ。

「作業場の後、ここへ上がっていろいろ四方山話をしていった。世話人殿のはなしだと、近ごろ松本では寺の復興が取り沙汰されておるようじゃ。松本藩は廃仏がひどかったからのう。破却された寺も百を下らなかったと聞く。しかし漸く廃仏も治まり、今度は再建よ。しかし、それだけの寺を建てなおすには大工がとても足らん。最近では飛騨の大工が入り込んできて請負を始めているという話だ。…」

啄斎は少し溜息をつくようにして続けた。

「また、舞台というのか、松本城下では権令の命で山車の曳き回しが禁止されておったが、最近ようやく法度が緩んできたらしい。外れの方ではまた山車曳きを始めているそうだ。しかし既に山車を手放してしまった町もあって、これも苦慮していると。いずれにせよ、いま松本では宮大工が払底したおるようじゃ。」

虎吉は廃仏毀釈の激しかった頃には既に諏訪にいて、その様子を直接目にしてはいない。しかし時おり実家に戻ると、旧松本藩領に入ったとたん壊されたり荒れた寺が目立ち、胸が締め付けられる。こうした寺が今後どうなってゆくのかは、まだまったく分からない。

「特に彫刻師がいないようじゃ。昔の匠は棟梁と呼ばれる者なら誰でも刻めたものだが、今はな…。はらたやの幸三郎殿は五年前に亡くなり、息子の倖三が跡を継いでいて腕はいいのだが、あのご仁はあの気質ゆえ、気がのらぬとまったく仕事をせぬらしい。なかなか当てにならぬようじゃ。」

「…。」

「それで世話人殿、わしに松本へ来ぬかと誘ってきよった。仕事なら幾らでも紹介すると。」

「…行かれるのですか?」

「まさかな。当然断った。わしはもうこの諏訪の地を出るつもりはない。秋宮にもまだやり残しがある。それが終わらぬうちはあの世にも旅立てぬよ。」

啄斎は詠嘆するように語り、しばらく視線を泳がせた。それから残りの茶を飲み干すと真っすぐ虎吉を見据えて言った。

「虎吉よ、お前もよい匠になった。自立せよ。独立して松本でおのれの札を上げ。」

「えっ、しかし私はまだ師匠の足元にも及びません。とても自立は…。」

「いや、お前の彫刻には力がある。それは天性と努力のたまものだ。先だっても和四郎殿(啄斎の甥・四代目和四郎富淳)がお前の彫った竜を見て『虎吉の竜には神気が通っている』と褒めておったぞ。お前はいくつになった?」

「この春で25になりました。」

「わしが25の時はもう親方で、彫刻のことはほとんど差配しておった。自立してよい。」

「しかし私はこのような人の彫刻は、師匠のようにはとてもゆきませぬ。それができるようになるまでは、ここで修業させてください。」

啄斎はぎろりと鋭い視線を虎吉に向けた。

「前から言っておろう、技は師から学んで身に着けるのではない。盗むのじゃ。お前にはこれまでも十分に盗ませてやったはずじゃ。あとは自分で己の身に覚えさせるまでのこと。修行は何処にいてもできる。」

「はい…。」

「それからこの彫刻は、虎吉の作としてお船に付くことになっている。」

「どういうことですか?」

「言ったとおり、この大盤彫刻は虎吉が彫った。世話人にもそう伝えて了解されておる。」

「そっそんな。冗談ではありません。私は粗彫りを僅か手伝っただけ、下絵も仕上げもすべて師匠の仕事ではありませんか。私の鑿跡などどこにも残っておりません。」

「九分九厘まで弟子が彫っても、最後にいくつか鑿を入れればそれが師匠の作品となる。それがこの世界の常だ。しかし偶にはその逆があってもよかろう。わしはこれを虎吉の作にすることに決めた。気に染まぬか知らぬが、そうさせてもらう。」

あまりのことに虎吉は抗弁する言葉も忘れ唖然とした。

「虎吉よ、普通の職人と違って、わしらのような彫刻師は、見知らぬ土地で認められ仕事を得るということは大変なことじゃ。わしは立川の子であったから有無なく認められ仕事もできた。しかし無名の職人は、なかなかに自立できるものではない。社寺にせよ山車にせよ、依頼するものは百年二百年に一度の大仕事。それを任せられる匠をと選んでくる。名もないものは、先ずだれも驚くような仕事を見せなくてはならぬ。これをお前の作としてお船に飾れば、松本でもお前の名と力は知られよう。仕事が来るようになる。これはわしからの餞別じゃ。心外かも知れぬが受け取ってくれ。」

「しかし、私にはとてもこんな作は彫れぬのです。」

「まだな…。しかし精励すればいつか彫れるようになる。この彫刻をわしだと思え。お前の傍で見守っていよう。」

啄斎は先ほどまで書いていた短冊を差し出しながら言った。

「これも餞別じゃ。しっかり励め。」

短冊には啄斎の座右銘が記されていた。

『彫刻の技は刀にあり 刀鋭利ならずんば手腕を施すに由なし 啄斎』

その時、おもてから鶯の声が聞こえた。

「おう、初鶯か。」

啄斎は障子越しに表の方を見遣った。

虎吉はその鳴き声が師の背後から響いたように覚え、彫刻の中に鳥の姿を探していた。

終り』

(この物語はフィクションです。実在する人物・団体とは一切関係ありません)

☆ ☆

最後に前回解説しなかったもう一面の大盤彫刻を紹介したいと思います。

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この彫刻は題名を『富士川の合戦』として掲げられていますが、残念ながら違うようです。

富士川の合戦は治承4年(1180)源氏と平家、源頼朝と平維盛により富士川を挟んで争われた戦いです。合戦・戦いと言っても平家は戦さの前に戦意を喪失しており、水鳥の羽音に驚いて勝手に退却してしまったという、平家凋落を決定づける戦でした。

ところでこの戦の日は10月20日とされ、現代であれは11月の中頃、初冬です。一方荒町の彫刻には、上部を桜の花が覆っています。春。つまり富士川合戦の図ではありません。

この彫刻は『勿来の関』と題すべきもの。描かれる武将は源義家です。

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(荒町お船の大盤彫刻『勿来関』)

『勿来関(ナコソノセキ)』

永保3年(1083)奥羽に後三年の役が発生し、鎮守府将軍として源義家が奥州に向かう時とも、乱を鎮定して帰途の折とも言います。義家一行が勿来の関に差し掛かると、そこは満開の山桜が咲き、折からの風に花びらを散らしていました。それを見て義家が詠んだ歌、

「吹く風を 勿来の関と 思へども 道もせに散る 山桜かな」

(来るな(吹くな)という名の関なのに仇な風が吹いて 道も見えぬほどに山桜の花を散らすことよ)

後三年の役の戦功により義家は源氏の棟梁としての地位を確立しますが、後世の武士たちが憧れる美しい武人となるのはこの歌によってでしょう。桜が似合う武士といえば、やはり義家にとどめを刺します。

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