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舞台保存会だより133 高士遊興図 七日市場の舞台

安曇野市三郷の七日市場という集落に諏訪神社という小なお宮があります。七日市場は三郷地区の南のはずれで、隣はもう松本市の梓川地区になります。田園の中の小島のような社叢が美しく、雪を頂いた北アルプスを背後にした姿は、安曇野の象徴的一景といえます。

(七日市場諏訪神社)

東向きの社殿から臨む景色も見事で、松本の東山を背景に鳥居を囲むように背の高い松が樹つ。中秋の月がかかった時はどれほどか見事でしょう。松籟という言葉がありますが、見ているだけでその微かな葉擦れの音が聞こえてくるようです。

 (諏訪神社の祭礼幟 西川秋象氏揮毫)

四月末の祭礼では、その松の下を子供たちに曳かれて一台の舞台が境内に入ってきます。小ぢんまりとした神社にも相応しく、舞台も小型の好もしいものです。

この舞台は少し変わった舞台です。全体は安曇野式の小型舞台ですが、正面に唐破風屋根の構えが付いている。舞台は正面にも庇小屋根は付きますが、それが唐破風屋根とは珍しい。どういう由来なのか分かりませんが、この唐破風正面が七日町舞台の個性となっています。

(七日市場舞台)

(七日市場舞台の唐破風正面)

さて七日市場の舞台は小振りながら彫刻が充実しており、見ていてたいへん楽しい舞台です。正面唐破風構えの中には鳥の彫刻があり、下に宝尽し、波に亀など。唐破風の上、二階勾欄下には波に兎の彫刻があり、これはとても魅力的な彫刻です。

ほか三方の勾欄廻りには竜や波千鳥。持送りは松に鶴。どれもたいへん優れた出来栄えです。

この彫刻の作者は松尾奥之丞武啓という人物とされています。なんだか公家武士のような凄い名前ですが、本当に職人なのでしょうか。ただ、松尾という姓は七日市場辺に多く有る苗字ですから、たぶん地元の人間なのだろうと思われます。

(七日市場舞台の彫刻 波に兎)

(唐破風下の小鳥の彫刻)(宝尽くし)

松尾は立川流を学んだと伝わっています。実際、彫刻のテーマ・作風からも立川流の作者といってよさそうです。松本周辺にも小松七兵衛など有力な立川の匠が居ましたし、或いは直接諏訪の師匠に附いたのかも知れません。いずれにせよこの松尾奥之丞という匠はセンスのいい、相当腕のある匠だと感じられます。

(七日市場舞台 一階手摺り部分に高士遊興図が刻まれている)

しかし七日市場舞台彫刻の一番の見どころは、やはり一階手摺り部分の高士遊興図でしょう。江戸時代の文人画などにも屡々描かれる中国文人の遊興する様を描いたもので、雰囲気もありたいへん優れた人物彫刻だと思います。

題名は『琴棋書画』でよいのでしょう。それが中国文人の代表的遊びでした。

琴を奏でて音楽を楽しみ、囲碁で知性と感性を競い、書を草して思いを陳べ、画を描いて心を開く。遊びというものは恐らく文明の所産で、どのような遊びが行われているかを見れば、その文化文明の質とレベルを測ることができます。古典中国の遊びは極めて知性的で、品位が高く、高雅なものと云わなくてはなりません。

(手摺り彫刻 琴を弾く文人)

『琴』

孔子は己を忘れるほど音楽が好きだったといいます。儒教では『礼楽』が政治の基礎とされましたから、音楽は単なる個人の慰みではなく、国家統治の重要アイテムでもありました。

琴は楽器の中でも由緒が古く、格式の高い楽器として尊ばれてきました。またパーソナル楽器として、詩のように思いを表現できる楽器として、特に文人に愛されました。

陶淵明(365~427)は無絃の琴を奏でて自ら慰めたといいます。現代で云えばエアギターでしょうか。或る境地とも言いますが、本当は思うように弾けなかったからだと思います。

ところでこの琴を奏でる図、少し変わっていますね。普通は正面を向いて描かれる人物が、背を向けている。なぜ背面を描くのでしょうか?

(琴を弾く文人)

実は先立つ作例があり、それは松尾奥乃丞が立川流作者であることの証左でもあります。

半田亀崎の山車・西組花王車には檀箱に『太平楽楽人』という有名な彫刻があります。数名の楽人が円座になって雅楽を奏でている場面です。円座なので楽人たちは中心を向くようにして配置され、そのため中央の人物は正面に背を向けている。アンサンブルとしての雅楽の雰囲気を表現するためですが、その大胆な構図に驚かされます。

(半田亀崎の山車 花王車)

(花王車の檀箱彫刻『太平楽楽人』)

作者は立川和四郎富昌。彼の山車彫刻の中でも個性的で、代表作の一つとされます。

松尾はこの彫刻自体を見たか、或いは下絵によってこの構想を知り、自らの舞台彫刻に用いたのでしょう。

七日市場の舞台の図は花王車の太平楽楽人と違って円座のアンサンブルではなく、また楽器も笛ではなく琴ですから、敢えて背を見せる必要はないようにも思うのですが、やはり真似したかったのでしょう。文人の後姿はなんとも奥床しく、神韻とした琴の響きも聞こえてくるようです。

(七日市場舞台の手摺り彫刻 囲碁を打つ文人)

『棋』

棋は囲碁のこと。中国発祥のボードゲームです。孔子の時代には既に行われていた形跡があるようですから、古いゲームです。古くは博奕と言って双六などと同じジャンルの遊びとして楽しまれていました。しかし、専ら知性によって競われる囲棋は品位が高く、嗜みとして文人貴族に愛好されました。現在と同じ十九路が定まったのは、晋から六朝頃のようです。

(囲碁を打つ文人)

丁度そのころ、南北朝時代の始まる383年。中国史上最大の会戦ともいえる淝水の戦いが、前秦と東晋の間で戦われます。華北を統一した前秦の苻堅が100万と言われる大軍を自ら率いて南下、江南の東晋に攻め入ってきました。対する東晋は精兵とは云え僅か8万の北府軍のみ。東晋を指揮したのは尚書僕射(総理大臣のようなもの)の謝安(320~385)でした。

謝安は甥の謝玄を将軍に任じ軍を委ねます。命ぜられた謝玄は不安で堪りません。戦略を訊きに謝安のもとを訪ねますが、謝安は「考えてあるから大丈夫だ。」と言ってほとんど取り合いません。逆に「碁を打とう。」と言って謝玄相手に棋を囲みました。普段、棋力は謝玄が上でした。しかし、この時は何局打っても謝玄は謝安に勝てなかったといいます。

囲碁という遊戯は、知力だけでなく精神力・胆力が問われる高度な心理ゲームなのです。

さて淝水の戦いでは、北府軍が先制攻撃で敵の出鼻を挫いた後、謝玄が心理戦を仕掛けます。苻堅はこれに嵌り一時的に前線を下げると、動揺した前秦軍はそのまま後退を重ね、これを襲った8万の東晋軍が100万の大軍を完膚無きに打ち破るという、未曽有の大勝利となりました。囲碁を通じて謝玄が謝安から授けられたものは、大きかったと言うべきでしょう。

因みに淝水での東晋の勝利が伝えられた時、謝安はやはり知人相手に碁を打っていました。家人の様子に知人が何かあったのかと尋ねると、謝安は「なに、小僧たちが賊を討ち果たしたようですわ。」と表情も変えず、平然として碁を打ち続けたといいます。

しかし客が帰ると大喜び。庭を跳ね回って履いていた木靴が割れたのも気づかなかったと。物事に動じないことを美徳とする東晋貴族の心意気を伝えるエピソードとして有名です。

(七日市場舞台の手摺り彫刻 書を書く文人)

『書』

同じ東晋の時代、書聖と呼ばれる人物が誕生します。王羲之(303~361)です。

王羲之の書法は書の準則とされ、それは現代に及びます。書道を大成した人と言ってよいのでしょう。

古代中国では文書は竹簡に記され、大方は篆書で書かれていました。後漢の時代、蔡倫が紙を発明すると書法は自由度を増し、三国時代は隷書が盛んになります。続く六朝では書法はまだ発展時代のはずですが、王羲之は楷・行・草の三法を一気に完成させました。洵に書聖と呼ぶに相応しい。

(七日市場舞台の手摺り彫刻 書を書く文人)

王羲之と言えば「蘭亭序」。王氏の邸宅があった会稽山蘭亭で、王羲之が催した曲水の遊宴を記した中国文化史上最高の名作です。

「永和九年歳は癸丑に在り 暮春の初め会稽山陰の蘭亭に会す…」

永和九年は西暦353年。この宴に招かれたのは当時東晋の名士文人41名。謝安の名もあります。王・謝は共に最も高い家柄の貴族で、二人は親友でした。

遊宴は皆で禊をした後、庭園に並び、曲水に酒を満たした觴(サカヅキ)を浮かべて、手許に来るまでに一篇の詩を詠む、というもの。詠めなければ罰杯です。これもまた楽しい。

(博労町舞台の勾欄下彫刻)

曲水は平安時代日本の貴族の間でも行われましたが、起源はこの蘭亭の会にあるようです。また近年、元号『令和』の出典として万葉集の大伴旅人による「梅花の歌三十二首」の序文が有名になりましたが、この歌会も蘭亭の遊宴に拠るもので、殊にその序文はまったく蘭亭序の引き写しと言いたいほどのものです。ただ内容は、蘭亭序が哲学的・観照的であるのに対して、旅人の序文は感覚的・情感的で、理に詳しい中国的感覚と、美に鋭敏な日本的感性が好対照に感じられ、民族の資質の違いも伺えて興味深いものがあります。

(七日市場舞台の手摺り彫刻 絵を画く文人)

『画』

中国の絵の歴史も相当に古いものと思われます。王昭君の説話からすれば、紀元前の漢代にはすでに宮廷画家が存在しており、精密な人物画が描かれていたことになります。

東晋になると顧愷之(344?~405?)の名が知られます。顧愷之は職業画家ではなく王朝に仕えた官僚で、桓温の下で参軍を勤めました。画聖と称され、やはり謝安と親交がありました。

彼の描いた画は散逸し、画聖たる所以は残念ながら想像のほかありません。人物画を得意としたようなので、高松塚古墳の女官図のような絵をイメージします。

顧愷之は西洋絵画で言うならばジォットに相当するのではないでしょうか。西洋絵画はジォットから始まります。但しジォットは初期ルネサンス・14世紀の画家。一方の顧愷之は4世紀の人物です。一千年も古い。その千年の間も絵画史は続いている。大変なことです。

(絵を画く文人)

それにしても、このような高士遊興図の時代というのは、いつ頃のことなのでしょうか?中国史は歴史時代と言っても紀元前1000年以前から始まりますから3000年以上。途方もない話です。

その中で琴棋書画が明確になるのは、やはり中国で貴族文化の華が咲いた東晋・六朝時代ではないかと思います。

六朝時代というのは三国時代の呉も含め、江南の地に続いた六つの王朝時代を云います。ここで初めて長江流域・江南の地が文化の中心となる。現在私たちがイメージする中国文化というのは、ほぼこの時代のものです。基本的に貴族文化ですが、個々の人格を核とした非常に人間的な文化で、自由闊達、個人性が際立つ文化だと思います。

(松本市某神社本殿の脇障子彫刻 竹林七賢図)

例えば竹林七賢による清談文化。彼らは官僚として十分な能力を持ちながら、決して国や世間に束縛されなかった。自分が思ったままの自由な生き方を貫きます。自分の思想・感情が中心でした。彼らは明らかに個人というものを所有していた。そうした極めて人間的な自由さが、六朝文化の基底にあると思います。

六朝という時代は、秦漢、隋唐という大きな王朝に挟まれて、あまりパッとしませんが、文化は本当に凄い時代だったと思います。書聖・画聖が出現し、造形芸術がここで完成する。また詩には陶淵明が現れ、文は四六駢儷体が整います。

貴族文化というものはどこの国でも高度で華麗なもので、屡々その国の文化を代表します。中国文明の頂点はどこかと訊かれたら、やはりこの時代ではないかと思います。

(七日市場舞台の曳行風景)
中でも東晋は、五胡十六国の時代で国は決して強くなかったが、人も文化も錚々たるもの。人は、謝安を始め、実質的に東晋王朝を築き上げた王導(276~339)、野心家として名高い桓温(312~373)など、政治家・軍人も超一流でした。彼らは4世紀にして、すでに完全な個人を所持していました。

桓温は、次のように語っていたといいます。

「漢たるもの、歴史に美名を刻むことができないのなら、醜名であってもよし、万世の後に名を残さねばならぬ。」

個人とは歴史的存在たる自己を十分把握した上で、己を歴史の外に置くことのできる能力です。したがって個人は歴史という舞台の中で演技者として振舞います。彼らは常に歴史の鏡に映る自分の姿を意識して決断、行動していました。

長い歴史を負って成立した文明社会の中にしか、個人は誕生しません。

残念ながら我が国では、個人という概念を具現した人物は、まだ登場していないようです。民族的に若いのでしょう。忖度というようなことが美徳とされているような国・社会では、個人の成立はまだまだ先の話なのだろうと思います。

(七日市場諏訪神社遠景)