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舞台保存会だより11 中町2丁目舞台の高欄下彫刻について(つづき)

中町2丁目舞台の高欄下彫刻について(つづき)
前回に引き続き中町2丁目舞台の高欄下の彫刻について解説したいと思います。
舞台背面を飾る一面、村上義光(むらかみよしてる)が錦の御旗を奪還する場面です。

舞台資料 021
(村上義光、錦旗奪還の図)

村上彦四郎義光(~1333)は信濃源氏の村上氏、現埴科郡坂城町の人で後醍醐天皇の時代、南朝方で活躍したいわゆる勤王の士と云われる武将です。大塔宮護良親王(おおとうのみや もりながしんのう)に従いました。
元弘元年(1331) 護良親王は後醍醐天皇とともに兵を挙げ、北条軍と戦いますが奮戦空しく天皇は捕らえられ、親王は吉野を越え熊野を目指し逃れてゆきます。この時お供は村上義光以下わずかに九名、『田舎山伏ノ熊野参詣スル体ニゾ見セタリケル』と云いますから、勧進帳の義経主従そのままです。
途中、土豪芋瀬庄司(いもせしょうじ)の館を通ろうとしますが、芋瀬は富樫ほどの度量はなかったようで、通してもよいが戦もせずただ通しては言い訳が立たぬ。戦利品となる合戦の証拠を置いて行け、とのこと。供たちは憤り勇みますが宮は堪え、錦の御旗を芋瀬庄司に与えてこの難所を切り抜けました。
芋瀬が御旗を得て喜んでいるところへ、所用で遅れて急ぎ一行を追っていた弁慶ならぬ村上義光が行き合います。
御旗を見て怪しむ義光。次第を知ると「『…汝等程ノ大凡下(だいぼんげ)ノ奴原(やつばら)ガ、左様ノ事ノ可仕様(つかまつるべきよう)ヤアル』ト云テ、則チ御旗ヲ引奪テ取リ、剰(あまつさ)ヘ旗持チタル芋瀬ガ下人ノ大ノ男ヲ掴ンデ、四五丈許ゾ抛(なげ)タリケル…」『太平記巻第五』
斯くして剛勇村上義光はみごと錦の御旗を奪還し、宮の後を追うのでした。太平記の中でも屈指の胸のすく名場面です。

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(錦の御旗を奪い返し奮戦する村上義光)

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(振り投げられる芋瀬庄司の郎党・下人)

この村上義光の場面は他の5面と違い素晴らしい躍動感があり、物語を知らなくとも見て楽しい場面です。ただ如何せん現代ではあまりにもマイナーな物語で、誰もその話を知りません。この場面も少し前まで「大江山の鬼退治ヵ?」と解説されていました。鬼にされては郷土の英雄村上義光も浮かばれませんが、実は私も村上義光という名前自体まったく知らず、里山辺の立川流研究家坂下与八先生に教えられて初めてこの物語を知りました。さっそく太平記を繙いて確認しましたが、考えてみれば太平記読みの教養というものは現代人にはひどく縁遠いものといえます。
坂下先生にしても、これを錦旗奪還と認知できたのは地元山辺の兎川寺お船の高欄下彫刻に同じ場面があるからでしょう。
兎川寺お船の彫刻は昭和3年、清水虎吉の次男清水島太郎が手掛けています。時代が下りますから島太郎は鶴斎の錦旗奪還(明治45年)を見ていたことでしょう。因みに反対側には四条畷の戦いに臨む小楠公の場面が彫られています。これも太平記です。

EPSON004
(兎川寺お船の村上義光、清水島太郎の彫刻は補作でお船本体は江戸期天保頃の建造と伝えられる)

因みにこの後、元弘三年春、大塔宮は再び吉野に戦いますが多勢に無勢、戦は敗れて必死の覚悟を固めます。村上義光は宮の身代わりとなって敵の大軍を引き付け、壮絶な最期を遂げました。
以上中町2丁目舞台の6面の高欄下彫刻について解説をいたしました。題材を復唱しますと「菅原道真」(保存会だより8)「神功皇后と武内宿禰」「中大兄皇子と藤原鎌足」「楠正成」「和気清麻呂」(保存会だより10)そして今回の「村上義光」ということになります。
最近までこれら彫刻の題名はよく分からなくなっていました。村上義光が大江山の鬼にされたように中大兄皇子と藤原鎌足は「黄石公の沓捧げ図」(中国故事)とされ、和気清麻呂にいたってはまったく「ワケが分からない図」ということになっており、彫刻群の統一的なテーマに及ぶどころの話ではありません。

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(八幡神を礼拝する和気清麻呂) (皇子に靴を捧げる藤原鎌足)

3年ほど前ですが、場面を1点ずつ出典とつき合わせて確認し、題材がすべて分かった時、これが天皇家・皇室に係る忠臣列伝であると解り感動しました。
中町2丁目舞台はその守護神というべき飾り人形に神武天皇を戴いています。その四囲を6面の忠臣像で飾ったこの舞台は、明治期の国体思想をそのまま表現したものといえます。

舞台資料 014
(中町2丁目舞台人形守護神 神武天皇)

歴史区分から言えば明治以降は近代で、われわれの頭の中でも江戸と明治では浮かんでくるイメージは随分違いますが、1867年の明治維新を機にすべてががらりと変わったわけではないでしょう。ちょんまげを切って洋服を着た人が歩くようになっても一般の社会・経済は直ちに変わりようもなく、寧ろ急激な経済の国際化と富国強兵政策による重税で庶民の生活は悪化したようです。
「雲の上では公方様が隠居なさり、天子様が江戸城に入られて政をなさるようだが、果たしてどうなることやら…」と、人々の意識はそんなものだったのではないでしょうか。実際、明治政府が最も必要と考えたのは、こうした国民意識の変革、つまり日本国民という気持を醸成する民衆意識の改革であったろうと思います。
国民国家というものは近代の産物で、それは革命と戦争の中から誕生し、国家教育を経ることにより成立します。日本国民というものは明治維新という革命と明治の戦争と明治の教育によって初めて誕生しました。そしてその明治教育の基礎となったのは、江戸時代の水戸学に淵源を持つ国体思想でした。近代日本の面白いところは、この前近代に成立したドメスティックな復古主義思想(尊皇攘夷)をイデオロギーとして明治維新という革命が爆発し、その後も近代化の底辺で常にこの古めかしい思想がヘゲモニーを持ち続けたことにあると思います。
それはともかく、この国体思想の中で称揚され、国家理念を体現するとされた歴史的素材が、この舞台彫刻に描かれた人物たちです。天皇を中心とした統一国家という国体思想の背骨を構成する人たちです。明治国家はそれまでの封建時代の英雄に代え、ここに登場するような人物を国民的英雄と定めました。

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(天皇の鳳輦を迎える楠正成) (新羅遠征に向う武内宿禰)

この思想は国家の教育として喧伝され、教育されました。しかしそれが共感を持って国民の中に根付いたのは二つの戦争、日清・日露戦争の勝利によってであろうと思われます。日清戦争は明治27・28年、日露戦争は明治37・38年戦役と呼ばれますが、この2つの戦役と勝利は新しい思想(実は伝統的な江戸期以来の)の正しさを確信させ、惟うに日本人の国家意識を変え、ひとつの確信に高めました。

神社保存写真 008 神社保存写真 009
(創建当時の中町2丁目舞台) (創建当初の人形・神武天皇)

中町2丁目舞台は明治45年の製作です。この舞台が企画制作されたとき作者たちはどのような思いをこの舞台に込めたのか。それは誕生したばかりの日本という国民国家への賛歌ではなかったか。舞台という江戸期から続く民俗工芸・伝統文化が、明治という思想と融合してひとつの形として表現されたのが、この中町2丁目舞台ではないかと思われます。
大袈裟かもしれませんが、私はこの中町2丁目舞台は明治という時代の一つの結晶であろうと思っております。ただしそれは明治政府の公式思想の表明ではありません。明治という時代を生き、その精神を体現・確信した近代日本人の意志の顕現であろうと思います。
舞台というものは、その制作についていろいろなことを考えさせます。