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舞台保存会だより12 飯田町1丁目舞台庫足場の設置

飯田町1丁目舞台庫足場の設置
地味な話題ですが、飯田町1丁目では舞台庫内に保守のための足場を設置しましたので、報告いたします。

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(冨士浅間神社前の宮村舞台庫 奥から2番目が飯田町1丁目の舞台庫)

ご承知のとおりただいま舞台保存会では舞台の修復を毎年2台のペースで進めていますが、修復の成った舞台はみな新造と見紛うばかりに美しく甦り、伝統の厚みとも相俟って一層その価値を高め、多額の募金活動を行って事業を成し遂げた保有町会にも高い満足をもたらしておりますが、修復後の舞台の保守管理には今まで以上に気を使います。
われわれの舞台は所謂曳き車・車輌ですが、一種の建築物でもあり、そして深志舞台については特に工芸品としての価値を高く有しております。そのため雨風・汚れは嫌います。多くの舞台は雨や埃から舞台を守るため、専用の覆いを誂えていますが、屋根にかけられた幌は簡単には外せません。そこで天神祭りを始め祭典におきましても幌をかけたまま出動してきます。みっともないからやめてほしいのですが、取り付け取り外しが高所となるため作業の危険性を指摘されると無理にとも言えません。

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(天神まつり 境内に堵列する16舞台 西部劇の幌馬車隊を髣髴させます)

ただ問題なのはこの幌が舞台庫の中でも365日被ったまま保管されていることで、漆塗りの工芸品にとってはどう考えても好ましいことではない。また舞台運行時に幌があることは、外見ばかりでなくその震動により幌の粗いカンバス地で漆面を擦ることになりますので、舞台の傷みを寧ろ助長します。修復関係者は悲しい気持ちで幌付舞台を見つめているのですが、舞台の曳き手も足りず、それも高齢者とご婦人ばかりという町会の現状ではやむをえないのでしょうか。
とはいえ昨年の天神祭、竣工成ったばかりの本町1丁目舞台がさっそく緑色の幌を被って登場したのには流石にがっかりしました。舞台の屋根、特に正面破風の鬼と下魚は天の神にも近く、町の見栄、職人の腕とプライドがこもる部分です。本町舞台にも素晴らしい鬼と下魚には見事な黄金の鳳凰が彫られているのですが…。

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(竣工直後の本町1丁目舞台) (本町1丁目舞台の鬼と下魚)

さて飯田町1丁目ですが、平成16年の改修竣工以来屋根に幌をかけていません。雨は屋根で受けて(考えてみれば当たり前の話ですが)埃や滴は拭います。そうはいっても屋根の上などメンテナンスは高所ゆえの難しさ危険が伴いますので、建築士と検討した結果、今回このような足場の作業台を舞台庫の中に設置することとなりました。
高所メンテナンス用の足場は小池町の舞台庫にもすでに取り付けられていますが(小池町舞台も幌をかけません)今回の飯田町1丁目舞台の作業台は、スチールパイプなど建築用足場材を構造的に組み上げて恒久的な足場としたもので、一見仮設足場で頼りなさそうですが上ってみると以外にしっかりしています。掴まるパイプがあちこちにあるので高所の怖さも感じません。屋根の手入れも安心してできそうです。

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(飯田町1丁目舞台庫 舞台と新たに設置された足場)

また、この足場は構造的に自立的な仕組みで、舞台庫への負荷も少ない模様。設置作業もおよそ3時間ばかりで終了しましたから、コストも低いのではないでしょうか。
舞台町会の皆さん、あなたの町でもぜひ検討してみられたら如何でしょうか。

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(舞台庫上段の足場から 前にあるのは舞台の屋根)

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(飯田町1丁目舞台の鬼と鳥衾) (飯田町1丁目の正面下魚「龍と玉巵」)

ところでこの舞台庫改装に際して蔵の奥から、舞台および舞台庫の改修に関する寄付芳名板が出てきました。明治より戦後まで4種類。町の変遷を知る上でも貴重な資料と思われます。
平成16年の大改修に際し、舞台の屋根裏から墨書が現れ、飯田町1丁目舞台は明治18年に新造されたことが明らかになりましたが、この芳名板によりますと。
1、 明治41年7月…舞台倉庫新築、舞台修繕
有志連名として大野幸十以下83名、建設委員として佐原四七三以下7名の名が記されています。因みに醵出最高額は21円。最少額は50銭でしょうか。
このほかに同年同月付け、棟上式の祝として餅米一俵の寄贈板があり、寄贈者は一誠会会員として早田芳太郎以下19名が記されています。

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(明治41年 舞台庫新築の芳名板)

2、 大正9年5月…舞台倉庫移転
寄付有志として藤森亀太郎以下57名の名前が見えます。金額は最高8円から1円まで。
舞台庫が移転したようですが、どこからどこへ移転したのでしょうか。

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(大正9年 舞台庫移転の芳名板)

3、 昭和22年7月25日…舞台倉庫修理
寄付者として早田茂人以下72名、委員4名。金額は最高350円から10円まで。

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(昭和22年 舞台庫修理の芳名板)

4、 昭和31年10月…舞台倉庫人形改修
寄付者として早田茂人以下59名、建設委員小林松治以下11名。金額は8,000円から150円まで。

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(昭和31年 舞台庫・人形改修の芳名板)

およそ半世紀の間のひとつの町の記録ですが、こうした芳名板を見ていますと物価の変動もさることながら、いろいろ気付かされることに出会います。
まず明治41年の舞台庫新築ですが、ではそれまで舞台はどこに保管されていたのでしょう。飯田町の舞台はきれいに解体できましたから、おそらくそれまで分解して各家に分割保存されていたのではないでしょうか。舞台の改修も行われ、このときの事業は大掛かりだったと思います。ただし新舞台庫の建設場所がどこであったのかは分かりません。
大正9年に舞台庫が移転します。移転場所はおそらく旧深志公園内、現在のSBCの並びのあたりと考えられます。ここにはかつて土蔵の如き各町の舞台庫が軒を並べていました。

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(かつて舞台庫が並んでいた一角 向かいは芸術館) (現在の天神舞台庫 10台収納されている)

昭和31年の改修はどんなことだったのでしょうか。この頃、当時深志公園内にあった各町の舞台庫は現在の神社境内の天神舞台庫と、冨士浅間神社境内の宮村舞台庫に移転します。昭和30年12月に旧市民会館が火災で焼失し、昭和33年、現在地に新市民会館が移転建設されたことがその誘因と思われます。ですからこの改修は実は移転・新築ではなかったかと推測するのですが…。
飯田町1丁目は古い町会で、出てくる名前も代を重ねて馴染みの名が繰り返されます。町の有力者もあまり変わりません。昔から町人が「住む」町だったということでしょうか。
また芳名板の墨書は、やはり時代が上がるほどに達筆となるようです。