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舞台保存会だより20 飛騨の匠 山口権之正(続き)

 

飛騨の匠 山口権之正(続き)

(掲載の写真はクリックすると拡大します)
前々回に続いて中町2丁目舞台の大工棟梁山口権之正について記したいと思います。
その前にひとつ、山口権之正の仕事としてとりあげた恭倹寺、倹の字を間違えて恭検寺と表記しておりました。恭倹寺が正しいのです。
恭倹という熟語があります。「人に恭しく(うやうやしく)己に倹しく(つつましく)」という意味で、おそらく儒学の系統の言葉ですが、語感も険しいためか現在ではほとんど使われず国語辞書にもあまり載っていません。教育勅語の中に『父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ… …朋友相信ジ恭倹己ヲ持シ』と出てきます。難解な語彙が多い教育勅語の中で、この辺は判りやすい家庭道徳の文言が並ぶのですが、急に『キョウケンオノレヲジシ』と来ると何のことやら解らず、『狂犬オノレを噛ミ?』といった具合に覚えています。
因みに恭倹寺は明治13年(1880)に創建されたかなり新しい寺です。(教育勅語の公布は明治23年(1890)ですから、寺の名前が勅語から採られているということではなさそうです。)廃仏毀釈の嵐はすでに収まっていましたが、例えば若澤寺のように奈良時代からという古い由緒を誇りながら破却され、そのまま廃寺となる寺がある一方、新たに興る寺もあったわけです。

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(恭倹寺の鐘楼と梵鐘 もともと上総の国(千葉県)最勝寺の鐘で元禄11年の鋳造 かなり由緒のある鐘だそうですが、やはり廃仏毀釈で流され売りに出されたらしい)

旧松本藩における廃仏毀釈は領内156ヶ寺のうち、破却を免れたのは1寺だけであったといいますから凄まじいかぎりですが、時が過ぎれば多くの寺は復活し、恭倹寺のように取り壊された寺の資材をもとに伽藍を築いて創建する寺もありました。維新という革命も、敬神崇祖といった日本人の心の革命までは遂げられなかったということでしょうか。
さて、山口権之正を調べて有明山神社を訪れた際、宮司さんが貴重なものを見せてくれました。山口権之正と清水虎吉による裕明門の図面です。同じ門の設計図面が2種類あるということはつまり、その建造に当たりコンペが行われていたということです。

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(山口権之正による裕明門の図面 正面・側面図)

図面は共に構造・外観はほとんど同一で、細部に違いがみられるだけです。双方とも烏口で引かれたのか美しい線で描かれ、すでに職人としての技量を誇示しています。二つの図面はおそらく見積書や関連書類と共に岡村阜一翁ほか神社役員の前に広げられ、見比べられ、結局清水虎吉が裕明門を落札することになったものと思われます。

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(清水虎吉の裕明門の図面 正面・側面図)

決め手は何だったのか、有明山神社にもそれについての伝承はありませんから想像するだけですが、図面から見る限り甲乙は付け難くも、清水虎吉のほうが僅かに描線が力強く、全体に迫るものを感じさせること。署名が達筆であること。また、門を飾る彫刻について、山口権之正は龍や唐獅子・麒麟・鳳凰など社寺建築彫刻の定番どおりの題材で臨んでいるのに対し、清水虎吉は現裕明門に顕れたとおり、仙人や二十四孝といった立川流が得意とした人物彫刻、更に十二支図といったバラエティーに富んだ彫刻群の提案がコンペの勝利に結びついたのではないかと推察しています。

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(裕明門 裏側 神社のほうから見た姿)

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(裕明門の彫刻 二十四孝図 郭巨・楊香)

山口権之正は手水舎を建設することになりました。有明山神社には山口権之正の手水舎の図面も残っています。しかし、清水虎吉のそれはありません。
どういうことなのか。手水舎もコンペになり、山口権之正が落札して清水虎吉の図面は失われたのか、あるいは清水虎吉が裕明門を落札したので、手水舎は山口権之正との随意契約ということになったのか。図面がないということは後者の可能性が高いように思われますが、何れにせよ山口権之正の心中には複雑なものがあったと思わずにはいられません。誰が考えても手掛けたいのは門の方でしょう。それだけにこの手水舎の建設は飛騨の匠としてのプライドの籠ったものとなったのではないでしょうか。今でも隣りあう二つの建物の間には、特別な気のようなものが通っているように感じられます。

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(山口権之正による手水舎の図面と手水舎)

二人の匠の関係が実際どうだったのか、ライバルかあるいは互いにその腕を認め合う仕事仲間か、その辺は分かりません。ただともに清水に住み、知らない顔ではなかったでしょうから、普段から何がしかの交流があったのではないでしょうか。『五重塔』の源太と十兵衛ではありませんが、職人の世界には独特の仁義や人間関係もあるようですから、仕事をめぐってただ入札競争があっただけということはなかったでしょう。

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(手水舎の彫刻 刻印「山口権之守」と訓める)

山口権之正の手掛けた建築物は安曇には幾つかあるそうで、『確か、あそこの拝殿もそうだったと思うよ』と宮司さんが教えてくれたのは、有明耳塚の香取神社でした。
近いので早速その足で見に行きますと、香取神社は有明の町外れにこんもりとした社叢を従えて鎮座していました。社殿は東向きで、手前に田園が広がる安曇野らしい景色の神社です。ここのお祭りにはやはり舞台が出るそうですが、その舞台は明治の末頃岡田から売られていったと伝承があり、岡田の人間である私は関心があるのですが、まだ実物を見たことがありません。

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(耳塚香取神社拝殿) (正面向拝部 網があって見づらい)

唐破風正面の立派な拝殿は、唐獅子や龍など見事な彫刻で飾られています。社寺彫刻を得意とした山口権之正の作に間違いなさそうです。虹梁部のうさぎなどは跳ね回ることが楽しくて仕方がないといった風情で、こういう彫り物というのは彫刻自体が好きで仕方なかった人の仕事なのだろうと感じさせます。建造年次はまだ調査中です。

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(唐獅子彫刻と虹梁部のうさぎ)

山口権之正について、生没年など詳しいことは判りません。ただ今回の調べで恭倹寺の鐘楼が明治24年、有明山神社手水舎が明治35年、そして中町2丁目舞台が明治45年と、その仕事が20年余に亘っていることが判りました。この20年が彼のどのような年代に当たるのかは不明ですが、大工棟梁としての年数ですから舞台を手掛けた明治45年はすでに棟梁として晩年ではなかったかと想像します。

山田棟梁によると、中町2丁目舞台は極めて堅牢な造りで、木と木の接合部には複雑な組み手を多用し並大抵の大工の仕事ではないとのこと。少なくとも将来解体修理されることは前提としておらず、バラシに当たっては、まるで自分の技量を試されているようだったと。そして『これは舞台の造りじゃなくて、われわれと同じ大工(宮大工)の仕事セ』と楽しそうに話してくれたのが印象的でした。100年を隔てて匠同士が、その技を言葉に語り合い競い合うことがあるのだと、この世界の奥深さを知り、羨ましくも感じました。

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(中町2丁目舞台の彫刻 二階欄間部分 白虎と玄武)

中町2丁目舞台は総数51丁という多くの彫刻で飾られた舞台ですが、今回発見された墨書から、支輪部6面の蛇腹彫刻以外は大工・山口権之正の仕事ということになります。舞台のいたるところ隈なく彫刻を施してゆくこの仕事は、彫刻師山口権之正にとって堪能のいくものだったのではないでしょうか。

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中町2丁目舞台 014 2008_1209中町2丁目舞台0045
(持送り彫刻 浦島太郎 舌切り雀 桃太郎)

特に日本昔話を題材にした前後の持送りは見事で、浦島太郎・花咲爺・桃太郎・舌切り雀と4場面は日本人であれば誰でも一目で分かり、見るだけで微笑ましくなります。この彫刻の作者は、助手として墨書に名を連ねている山口徳之助とも考えられるのですが、何れにせよこのような舞台と彫刻を残してくれた飛騨の匠に、あらためて深い敬意と感謝の念を捧げたいと思います。

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(中町2丁 目舞台 屋根の鬼 修復前・修復後)